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紙枕の中にある

本とエッセイ

世界SF全集 第13巻「レイ・ブラッドベリ」

レイ・ブラッドベリの時代】

  5回目の今回は『華氏451度』で有名な作家、レイ・ブラッドベリを取りあげる。彼の名前は知ってはいたけれど、肝心の作品については全く読んだことがなかったので、彼がどのような時代に生まれ、どのような経緯で作家になったのか、また作家としての特徴などを書きつつ、本巻に収められた作品を読むことにした。今の時代、Wikipediaを見れば一発で分かった気になるし便利なんだけど、ブラッドベリの項目はあまりにもあっさりと書かれていて頭に入ってこなかった。なのでこの記事は、それらを補うためのメモ貼的な意味合いも込めつつ書くので多少長いですが、読んでいて参考になる部分があれば幸いです。

 

f:id:realreference:20161206183108j:plainレイ・ブラッドベリ本人の写真)

 

 レイ・ブラッドベリ(Ray Bradbury, 本名:Ray Douglas Bradbury 1920~2012 )は、日本で紹介されている海外SF作家の中でも、特に有名なアメリカ人SF作家の一人だ。彼の作品が日本に紹介されたのは、今から約半世紀も前にさかのぼるが、彼が世を去った2012年以降の今もなお、彼の作品は古典SFとして多くの人々に読み親しまれている。

 レイ・ブラッドベリは、イリノイ州ウォーキガン(Waukegan)という町で生まれた。彼が生まれた1920年代頃のウォーキガンは、人口約3万5千人の景気に賑わう、あわただしい産業都市だった。いわゆる「狂騒の20年代」と呼ばれるように、アメリカは移民の流入と産業の発展、大量消費社会へと転換するこの時代にレイ・ブラッドベリという作家は生まれた。次々と娯楽が町に溢れていく目まぐるしい時代の中で、幼いレイ・ブラッドベリはラジオ、映画、サーカス、コミック、絵本、幻想小説などに親しんでいたとされている。彼が2歳の頃、生活の中にラジオが入り込み、3~4歳の頃には白黒映画が彼の心を魅了していた。当時のことについてブラッドベリ

「遠く離れたスケネクタディの音楽が聞こえた。わたしが本物のラジオをはじめて経験したのがそのときだった。(…)遠い声のする遠く離れた音楽に耳をすました。当時はわからなかったが、わたしは未来に耳をすましていたんだ」

「神は、メタファーを貼りつける生きものとしてわたしをお造りになった。メタファーは、見るはしからわたしに貼りついてきた。最初が『ノートルダムのせむし男』だ。(…)どうしてこの映画が、3歳児のなかに共感をかきたてられたのかはわからない。ただひとついえるのは、チェイニーがみごとに役割を演じきり、彼の失恋はあまりにも感動的で身近なものだったので、わたしの魂全体がその幼い年齢より未来へ進み、わたしは自分自身のなかで背中を丸め、せむし男になったんだ。小さな体には驚くべきことに思える。でも、そういうことが起きたんだ」

ブラッドベリ年代記』P37~38)

 と述懐しており、幼少期にマス・メディアや映像文化の台頭と共に成長した世代だったことがわかる。昔話などについては、叔母のネヴァ・ブラッドベリからの影響が大きかったようで、『ジャックと豆の木』や『美女と野獣』、『シンデレラ』など定番の昔話はこの時に読んだ。後年彼が批評家などにSF作家と分類された際、自身はむしろファンタジー作家であると名のり続けた起因は、幼少期に体験した、映画・ラジオという新たな視覚・聴覚に訴えかける文化と、絵本や昔話の旧来の伝統的な想像の営みが生活上で抽象的に結びついたことにあるのかもしれない。

 少年期のレイは、読書好きな祖母の書庫から『オズの魔法使い』、『不思議の国のアリス』、エドガー・アラン・ポーの『神秘と想像力の物語』などを見つけ、またアメリカSF界の草分け的存在のパルプ雑誌、『アメージング・ストーリーズ・クォータリー』とも出会い、神秘的な空想の世界へと興味を深めたとされる。彼の読書経験からうかがえるのは、SF雑誌を読んで学問的な科学知識への探求心へと移るのではなく、あくまでも架空の物語としての、抽象的な概念の「SF」という発想に興味を覚えていたことにあるだろう。それは彼の学校の成績でも反映され、ブラッドベリが得意だったのは英語と美術の教科であり、数学に関してはむしろ不得意であったとされている。

 1930年代にはカルフォルニアへと移住し、ハイスクールへ入学すると、創作に手を出し始めた。コナン・ドイルP・Gウッドハウスなどの作品を模倣し、地元のウォーキガン峡谷と森を題材に創作を試みたりもした。後にこのイメージは、自伝的作品の『タンポポのお酒』、『ハロウィーンがやってきた』、『さよなら僕の夏』へと昇華する。1940年になると、SF作家ヘンリー・ハースという人物との共作「振り子」でデビューした。また、当時アメリカで活躍していた女性のSF作家、リイ・ブラケットという人物とSF協会の縁で指導を受けることになり、彼女から小説の刈り込み方やプロットの立て方を学んだ。ちなみに、このリイ・ブラケット(Leigh Douglass Brackett)という人物は、映画『スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』の脚本を手がけたとされ、スペース・オペラやファンタジー要素が強い作家と言われている。

 その後、アメリカが第二次世界大戦を迎えた際、ブラッドベリは徴兵のための身体検査受けたが、極度の近視のため不合格となり創作を続けることになった。同じくSF作家であり、海軍士官だったロバート・A・ハインラインとは、母国に対する意識の違いから亀裂が生じ、その後何十年も絶交関係となったが、のちに和解している。戦時中は、海軍の工廠でアイザック・アシモフなどのSF作家と出会った。1944年には、『ウィアード・テイルズ』という雑誌に掲載された「みずうみ」で好評を博した。大衆雑誌で確実に実力をつけていた彼は、次第に「パルプの詩人」と呼ばれ、散文的で詩的な文体が評価された。 

 戦後は「闇のカーニヴァル」などのダーク・ファンタジー要素を取り入れた怪奇小説を執筆しており、初期の「パルプの詩人」からアメリカン・ゴシック・ホラーの草分け的存在へと、表現の方向を変えていったとされる。初期の集大成的作品の「闇のカーニヴァル」を書いた後、ブラッドベリは結婚を経て代表作『火星年代記』を発表した。この頃のブラッドベリは、週に1作のペースで短編を作ることを習慣化していた。彼自身が「自分は長距離ランナーではなく、短距離ランナーだ」と言うように、彼は短編を主軸に執筆活動をしていた。ファンタジー的なものを書いて以降、1950年代のアメリカに呼応するかのように彼の作品は、政治・社会的な要素を含意したものに変化していった。50年代以降は急速に社会的な活動に関わり、いわゆる「赤狩り」の検閲や排除運動に影響されて、その風潮に反抗する講演を行ったり、声明文を発表した。1950年代初頭において、レイ・ブラッドベリの名はSFの分野ですでにトップ・プレイヤーになっていた。1953年に『華氏451度』が刊行されると、作家としての地位は確立されて、この頃になると脚本家の仕事へとキャリアを広げた。映画『白鯨』や『トワイライトゾーン』の脚本なども手掛け、ヒッチコックと出会ったりもしていた。50年代から80年代にかけてのブラッドベリは、2つの代表作を軸にベストセラー作家として活躍、その間を埋めるように脚本家の執筆活動もしていた。それ以降は、代表作を超えるようなベストセラーはなかったが、老齢にも関わらず2000年代にはミステリー小説も発表した。

 2004年には、マイケル・ムーア監督の映画『華氏911』の影響もあり、オマージュ元の『華氏451度』の作者としてブラッドベリは再び取り上げられた。ムーア監督に対しての不快感をブラッドベリは示したが、映画そのものは人々の話題となり、いかにブラッドベリ著作がムーア監督を含めた人々に影響を及ぼしていたかを示すことになった。同年、ブラッドベリはアメリカ国内で芸術家に与えられる最高の栄誉とされる、ナショナル・メダル・オブ・アーツを授与された。2012年に彼は逝去したが、現在においてもアメリカで発展したSFという文学ジャンルの古典としての評価は高く、日本では新訳版が出版されたものが読まれている。ちなみに、ブラッドベリの蔵書は彼の出身地であるウォーキガン公共図書館に所蔵されているので、興味のある人は行ってみるのもいいかもしれない。

 

【作風・評価】

  ブラッドベリの作風は基本的に3つあり、幻想小説怪奇小説、SFの作品が多いとされる。また、彼が雑誌掲載からデビューしたこともあってか、短・中編小説の形式で書かれたものが多く、およそ400~500篇の作品があるとされている。

 彼の評価は、代表作が1950年代に位置していることから、1960年代にみられる内面を描く手法へ移行したニューウェーブ運動や1980年代のサイバーパンク、ゲームやネットが浸透しスマホを片手に出かけるのが現実社会で普通となった21世紀の現在では、ブラッドベリの作品はある種古臭い牧歌的な抒情性に根差した作品だと思われるかもしれない。それは「古典SF」の代表として括られて、やがて忘れ去られてしまうものに過ぎない。しかし彼の作品がいまだに評価されるのは、アメリカ社会の一部をモチーフに、人間社会へ対する諷刺や独特な詩的表現の豊富さに加えて、人間の問題に対する洞察力が読者に想像力を介して喚起されるところがあるからだろう。それは世代を超えて、多くの人々へインスピレーションを起こし、大いに影響を残した作家として、SF史に名を刻んでいる。

 

【所収作品①:『火星年代記』】

 『火星年代記』(英: The Martian Chronicles 訳:小笠原 豊樹)は、SFというジャンルを読むにあたって、いわば体験入学的な役割を担う小説で、数えきれないほどの読者がこの作品を通過していった。ショート・ショートで有名なSF作家の星新一は、この作品でSFを志したとされている。また、アメリカの作家スティーブン・キングレイ・ブラッドベリがいなかったら今の自分は存在しなかっただろうと評し、とりわけ影響された作品として、この『火星年代記』を挙げている。

 内容については、今更ここで紹介する必要がないほどに多くの人が紹介してしまっている。火星を舞台にした26の連作短編集の形式を持つこの物語は、1950年に出版された。もともとは、1946年にパルプ雑誌『プラネット・ストーリーズ』に掲載された短編から始まり、各章ごとに人物や場面が変わり、バラバラの小品が一種の枠物語として機能している。タイトルにある通り、火星の年代毎に巻き起こる出来事は、人類と火星人の交流の難しさ、文明観の違いを基軸に展開されており、移住者と原住民の問題意識を投げかけている。行儀良く読書をすれば、アメリカ社会の諷刺として読めるこの作品だが、物語としての抒情性は平易で色彩に富んだ表現で書かれている。火星に人類がやってくる歴史をアルバムをめくるかのように読めるので、レイ・ブラッドベリの作風がどんなものかを知るには取っつきやすい内容だ。 

 たびたびSFでは火星が舞台となった物語が登場するけれども、ブラッドベリの『火星年代記』の場合は、単なる舞台装置として壮大な印象を与えるために用いられたわけではない。ブラッドベリがシャーウッド・アンダースンという作家の『ワインズバーグ・オハイオ』という連作短編を読んだことから始まり、エドガー・ライス・バローズの「火星」シリーズと出会ったことにより、『火星年代記』の着想は明確となったとされている。そこでイメージされたのは、アメリカ中西部の景色を重ね合わせた寓話であって、スタインベックの『怒りの葡萄』からも短編を繋ぎ合わせる構成上の隠喩的手法を取り入れていた。

 しかし、「SF」として読んだ場合、『火星年代記』の火星の景色というのは、科学的な認識を欠いている部分がある。その点に関しては、作者ブラッドベリも自覚しており、この作品はSFではなくファンタジーだとしている。『火星年代記』に描かれた火星には、現実の火星の景色とはかけ離れた風景が描かれており、大気や青色の山々が存在する。ブラッドベリ“公認"の伝記とされる『ブラッドベリ年代記』では、この作品で表現された火星は、19世紀のイタリア人天文学者、ジョバンニ・ヴィルジオ・スキアパレリという人物とアメリカ人天文学者パーシヴァル・ローウェルという人物からの影響があったとされている。彼らが考察した火星というのは、火星表面に刻まれた線を知的生命体が作り出した「水路」だと仮定し、数百の巨大な線形が植物を灌漑させるための運河網として機能していたと推測した。現在の科学からすると、彼らの推測はそれこそ「SFちっく」なものに過ぎないが、ブラッドベリはこの絢爛豪華な幻想に浸ることができるヴィクトリア朝のロマンチックな想像力を採用したのだ。

 『火星年代記』はそうした19世紀的科学に基づいたもので、ファンタジックな世界観の中で人間中心のドラマが展開されているため、火星人たちはそのドラマから外れたところで暮らしている。滅びかけた地球から移住してくる地球人たちは、不安を抱えた内面を火星人たちに慰めを要求しつつ侵略してくる。そこにはアメリカという多様化の裏に隠された意図しない暴力性が、原住民に向けられている。この作品の主人公が人類だとするなら、火星人たちはいったい何の役割を担っているのだろうか。地球からやってきた調査隊は、火星人の文明を理解する。

 

「火星人は、動物の生活の秘密を発見したのです。動物は生に疑問をもったりしません。ただ生きています。生きている理由が、生そのものです。生を楽しみ、生を味わうのです。(…)火星人は戦争と絶望のさなかに、『一体なぜ生きるのか』と考え、その答えが得られないことに気づいたのでした。しかし、ひとたび文化がおだやかなものになり、戦争が終わると、その疑問は新しい局面では無意味なものになりました。すでに生はよきものであり、論争の必要は消滅していたのです」

世界SF全集13巻『火星年代記』より「月は今でも明るいが」P83~84

 

  はたして火星人たち全員が論争を放棄したのかどうか、それはわからない。火星人たちの哲学を知る由もない人間たちは、はてしない距離を越えて移住先を目指してやってくる。その風景はまるで荒涼とした砂漠をさまよう流浪人のように表現されている。

 

「何かを見つけるために、何かを見捨てるために、何かを手に入れるために、何かを掘り出すために、何かを埋めるために、小さな夢を抱き、大きな夢を抱き、あるいは全く夢をもたずに、やって来た。(…)あたりは宇宙空間で、見馴れぬものばかり、見知らぬ仲間ばかり。(…)数には慰めがある。だが最初の孤独な人たちは、自分達だけが頼りだった……」

世界SF全集13巻(『火星年代記』より「移住者たち」P90

  

 火星人たちはありのままの生を謳歌する。地球から逃亡してきた人間達は、それぞれが胸に理想を抱えつつ孤独を噛みしめている。火星人は、「火星人」という種全体の生きることだけを全肯定した。別個で生きることを良しとしている地球人は、現在の生を否定して疑問視しており、相対的な関係にある。地球人全体を代表して送り込まれた調査隊の隊長は、二者の枠組みから外れて種の選択そのものに疑問を感じはじめる。

「一体われわれとは何者だろう。多数派か?それが答えなのか。多数とはつねに神聖なのか。つねに、つねに、つねに神聖で、ほんの一瞬たりとも誤りであることはないのだろうか。千万年経っても正しいのか。そもそも多数とは何だろう。だれが多数なのだろう。多数は何を考え、いかに行動し、将来変わるのかどうか。そしておれがこのいまいましい多数に加わったのは、一体全体どういうわけだ。おれは居心地がよくない。閉所恐怖症か、群衆恐怖症か、それともただの常識か。全世界が正しいと思っているとき、一人の人間が正しいということはあり得るか。」

世界SF全集13巻『火星年代記』より「移住者たち」P86

 『火星年代記』の火星人たちは、テレパシー能力を持っている。そのため、個々の感傷だとか葛藤は、すぐに共有意識へと浸透して強力な種の全体へ向かうための自己肯定に還元されてしまう。これは便利なようでいて、何もかもが筒抜けになっているような村社会のようにも見える。地球人たちはこの村社会を放棄したい種なのかもしれない。

 はたして、この二つの知的生命体は、物語の中で何を葛藤しその解決へ向かうためにどんな選択をし、結末を迎えるのだろうか。その印象は読者に投げかけられ、民族の軋轢を重ね合わせて想像したくなるような内容だ。ただし、現在の世界情勢はさらに複雑になっていて、火星人が地球に移住したような状態のようにも思うが、気のせいだろうか。

 なお、世界SF全集に収められたものは旧版のものなので、読む場合は21世紀の時代に合わせてブラッドベリが書き直した新版が現在では入手がしやすくなっている。 

 

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

【所収作品②:『華氏451度』】

  『華氏451度』(原題:Fahrenheit 451 訳:宇野 利泰)は、1953年に発表された。本を所持することが禁止された管理社会で、焚書官として働く主人公ガイ・モンターグが、あるとき本を読んでしまい、危険分子となりその身を追われる物語だ。題材として扱われた焚書(ふんしょ)は、1950年代のアメリカで行われた「赤狩り」という共産主義排斥運動に深く関わっている。

  この作品もレイ・ブラッドベリを代表する作品の一つなので、本のタイトルくらいは聞いたことがある人は多いのではないだろうか?本が禁止された社会とは、いったいどういう社会なのか。毎月、湯水の如く本が出版されている現在の日本の中では、そのイメージは難しいものがある。

 『華氏451度』の世界は思想統制がされた社会で、本を所持していた場合、通報されるディストピアな雰囲気に満ちている。主人公モンターグの仕事は、通報した家へ赴き、火炎放射器を手にして焼きに回る。『華氏451度』の世界で活躍する焚書官は、作中ではイギリスからやって来たことが言及され、以下のように示されている。

「創立 1790年。イギリス本国よりわが国にもちこまれ、その影響をおよぼすおそれのある書籍を焼き払うことを目的とす。初代長官、ベンジャミン・フランクリン。」

世界SF全集13巻『華氏451度』P265

  ベンジャミン・フランクリンという人物は、アメリカ建国の父と呼ばれる人物で、彼の肖像は100ドル紙幣として有名だ。彼の業績には、アメリカ初の公共図書館の設立などがあるが、同時に禁書を初めて実施した人物という側面もある。1790年のイギリスというのは、フランス革命と関係しており、貴族階級のものだった本が庶民へと行き渡っていく、大衆が出版文化に触れ始めようとした年代だ。本を読むことが禁止された社会へ向かった影響そのものがイギリスから来たのに、自国の書籍を焼き払ってしまう自己否定的なこの設定には、ブラッドベリのアメリカに対する歴史観と皮肉が込められているかのようだ。ちなみに、主人公モンターグの名前は、ある製紙会社からとったもので、ファーバーという人物は有名な筆記具にちなんだ名前だ。

 『華氏451度』の世界は、アメリカのみを描いている内向きな世界観だ。作中では、アメリカ以外の世界情勢は経済破綻し貧窮していることが言及される。主人公たちが生きるアメリカは、徹底的に管理されているが社会システムは完成している。管理から外れなければ、即物的な生活に困ることはないのだ。主人公の上司、署長のビーティは目前にある「生」を、本を所持していた老女にこう説いている。

「ここにある書物は、それぞれ矛盾したことを記している。きみは数年間、この家に閉じこもって、いわばバベルの塔をまもってきたわけだが、これからさきは気持ちを入れかえて、実世界のあかるい人間として、生れかわることだな。こんな書物のなかに住んでいたのでは、死人も同然のものになってしまう」

世界SF全集13巻『華氏451度』P265

 眼前の「生」が保障された社会では、内面に閉じこもり沈思するような本というのは否定される。やがて主人公モンターグは、目の前の「生」に死を与える本を処分する役割を担った焚書官であるからこそ、焼き尽くされていく本について考え始めてしまう。

「ゆうべはじめて、書物の背後には、それぞれひとりの人間がいることを知った。その人間が考えぬいたうえで、ながい時間をかけ、その考えを、紙の上に書きしるしたのが、あの書物なんだ。(…)その人間が、考えていることを書物にするまでには、おそらく一生を費やしたのじゃないかな。世界を見、人を見、一生を賭けて考えぬいたあげく、書物のかたちにしているのだ。それをぼくたちは、情報を受けとると、わずか二分間で駆けつけて、ボーンだ。それでなにもかもおしまいになるのだ」

世界SF全集13巻『華氏451度』P279

 目の前の現実を生きるには、長い時間をかけ考えてはいられない。思想的には刹那主義的な欠点を抱えながらも、一つの完成された管理社会が描かれた『華氏451度』は、組織体で生きることを目指しているため、個別の葛藤は無視してしまう。「いま」を生きる社会では、組織体で欲求が満たされるスポーツが推進され、この社会へと陥った原因は国家ではなく人々にあったことが署長の発言で明らかにされる。個々の人々が別種の疑問を抱き、哲学や思想に目覚めてしまうことを極端に排した世界では、身体感情の脊髄反射的な要請が求められるような、テレビ・スポーツ・性・などが共有され続ける。

  この世界では、少数派に追い込まれた人々の幸福というものは、本の世界にある。葬式も廃され、回顧録を書くことも禁止された社会の『華氏451度』は、孤独に気が付く前に火に燃やされ、やがて灰になってしまう。モンターグの妻は≪海の貝≫という際限なくラジオが垂れ流される物を耳に突っ込み、薬物依存になりながらも目の前の「生」を楽しもうとする。「公共」という共同体に大衆の幸福を託した社会は、プライベートな苦悩がいつでも邪魔になる。

 この作品は、現実の検閲制度を基に作られた政治批判的な側面もあるが、作者レイ・ブラッドベリは、決して党派意識に縛られない人物だ。『華氏451度』は、特定のイデオロギーに属さない個人が書いた物語であることを忘れてはいけない作品だ。現代はさらに生活の速度が合理化され、速度は速くなっている。ネットワーク社会は情報の際限がないので、延々と媒体が出現し、それを話題にすることができる。しかし人間の肉体は限りある生の中で独自の速度を持って生活するほかなく、肉体には限界がある。この作品を読んでいると、無限の話題が出現する≪テレビ室≫のような社会から一歩離れて、もう一度読書の営みについて考え直したくなる。本は巻末に向かって際限が設定されているにも関わらず、文字を読むことは決して速く読み飛ばすことができない。主人公モンターグは、本がもたらす速度を越えた言語の深刻さに気が付いてしまったのだろう。

 

 

 

 

【月報・解説】

  

f:id:realreference:20161206191503j:plain(月報と函。)

 

  世界SF全集のブラッドベリの巻は第20巻目の配本。月報に寄稿したのは、小説家の三木卓ブラッドベリ雑感」、翻訳家の矢野浩三郎鏡の国のアリス」、翻訳家の伊藤典夫「なぜぼくはブラッドベリの愚作を訳すか」の3人。

 「ブラッドベリ雑感」では、ブラッドベリの小説を機械文明の先端としてではなく、20世紀初頭の雰囲気のした作品だと評しながら、『火星年代記』に感動したことや20世紀前半のアメリカ的風土の記憶に満ちたものであること、そして反マッカーシズムの意図が『華氏451度』にあったことが書かれている。しかしそれ以前に、レイ・ブラッドベリの作品には幻想的で鮮やかな世界観に魅力があり、抽象的に調和を保っていながら、その調和を打ち破って恐ろしい美しさが出ているとしている。

 「鏡の国のアリス」では、東京のオモチャ箱のような乱雑さとアメリカの広大な大地を対比的にイメージした上で、幻想的なイメージを提供しているブラッドベリ作品を、現実を写し取った鏡のようなものだと喩えている。それは現実の二次元的な鏡のような働きではなく、「鏡の国のアリス」のような、過去や未来を虚構という想像力によって現実の影が出てくることで、嘘の論理が自律性を持つことを明かしている。しかし、ブラッドベリ作品は、その論理を越えて境界線があやふやになるほどに、仕掛けが込められているとしている。

 「なぜぼくはブラッドベリの愚作を訳すか」では、伊藤典夫は初期作品を訳す経験をしたことで、ブラッドベリ作品にも習作や埋もれた作品もあることを紹介している。ブラッドベリファンの第一号のような作家、星新一は翻訳を通して愚作があることを知ったとしている。翻訳者として、伊藤典夫は過大評価もせず、有名な海外作家であっても屑同然の作品があるとして、そんな作品も掘り起こされてしまうことを伝えている。その上で、「愚作」と呼ばれるものを訳し、その「愚作」にも貴重な要素が隠されていることを示したいという、ある種のSFファンとしてのプライドを表明している。そして、『刺青の男』、『太陽の黄金の林檎』、『華氏451度』、『十月はたそがれの国』まではバランスのある作品だが、その後の作品は空疎なもので評価が下がるということも、フェアに紹介している。

 世界SF全集13巻、レイ・ブラッドベリの巻の解説を担当したのは、SFを日本に持ち込んだ人物として有名な福島正実だ。解説では、ブラッドベリを単なるSF作家としてではなくプローパーSF枠を大きく外れた作品を書く、広義の意味のSF作家と評している。そして、ブラッドベリはSF作家だけではなく、エドガー・アラン・ポーやアムブローズ・ビアースという作家に繋がる、正当なアメリカ幻想文学の後継者だと位置づけている。そこでは、あえてブラッドベリにラベルを貼るとしたら、それはファンタジイ作家と呼ぶべきだとして、グロテスクとアラベスクの小説だと言った、イギリスのクリストファー・イシャウッドを引用している。

 解説ではブラッドベリの評価をベタ褒めしているため、ブラッドベリよりもむしろ福島正実のSF熱がどれほど強いかがうかがえて面白い。この本が出版されたのは1970年で、大阪万博や国際SFシンポジウムが日本で開催された年なので、当時の熱狂の度合いが残されている解説として読めるだろう。ちなみにこの世界SF全集ブラッドベリ巻の次回配本は、小松左京の巻だった。

 福島正実ブラッドベリについては、もともとサイエンティフィックな小説はもちろん、そうした道具立てについて書くこともしない作家で、人間疎外や科学技術の進んだ未来における人間性の喪失を描いた反科学主義的な作風だと評している。解説にあるブラッドベリ自身の引用は以下のように記されている。

「ぼくの作品は、皮肉なことに、よく科学否定の小説だといわれる。だが、それは心外なのだ。ぼくは、テレビでも、映画も、自動車も原子力も、心から信頼している。ぼくたちの寿命を、若さや美しさをのばし、より大きな娯しみを与えてくれるかがくというものの、ぼくはつねに味方なのだ。寒いときに温めてくれ、暑いときには冷やしてくれ、病気のときに治療してくれ、淋しいときに慰めてくれる科学を、ぼくは好いている。恐ろしいのは、そうした科学の誤用なのだ」

世界SF全集13巻 解説 P413~414

  ブラッドベリも、発展してゆく科学技術を期待して喜びながらも、その反面でペシミスティック(厭世的)に疑い続けた人間だったのだろう。それはヴィクトリア朝文化に伝統的なコンプレックスを抱いた「アメリカ人」が、最先端の科学技術へと進展していった貪欲さを立ち止まって考えようとした抵抗のようにも見え、SF作家の誰もが抱く想像力の源泉を持っていたのではないだろうか。本巻の所収作品を繋げて読むと、発展へ加速してゆく時代の中で取り残され、忘れ去られてゆくものを注意深く読者に喚起しようと試みた痕跡を辿っている感覚があった。

 

【感想】

  レイ・ブラッドベリの作品は、大学の講義で『華氏451度』が紹介されていた。しかし、1950年代のアメリカ文学を読んで何が面白いのか分からなかったし、古臭い内容だなと思っていたので読んだことはなかった。実際に読んでみると表現がいちいち詩的になっていたりする部分があり、確かに古臭さを感じたけれど、現代に通じる要素がある内容に胸が打たれる所があったのも事実だ。『火星年代記』でいえば「月は今でも明るいが」や地球人と火星人たちの違い、『華氏451度』では出版不況と読者や消費文化について重ねてしまった。

 今回読んでいて分かったのは、SF作家といってもハードSFのようにキチキチに論理を詰めた物だけがSF作品ではないということを知った。「SFとは何か?」という問いに関して、SFオタクやSFファン、SF作家であってもその定義づけは難しいらしく、長年に渡って論争が繰り返されてきた歴史があったという。その定義づけには個人の好みの問題や感動したSF作品に対して称される「センス・オブ・ワンダー」という価値観などが含まれていると思う。しかし、まずSFは科学技術という最先端の思考に基づいて想像される物語だという前提があって、その論争は、まるで空の色が何色であるかを定義しているように思えた。少なくとも、それぞれのSF作家はSFという概念を自ら創造している。

 レイ・ブラッドベリ自身のSF観は以下のように語っている。

「SFは、アイデアの小説なんだ。僕はアイデアに興奮する。興奮するとアドレナリンが出て、そうなればもうアイデアからエネルギーをもらってるんだってわかる。どんなアイデアでもいいんだが、頭の中に発生して、まだ現実ではないが、いずれ現実になって世を変えて、もう元には戻れない、というようなアイデアがSFになる。世界のどこかを小さく変えるのであっても、そういうアイデアがあって書いたら、SFを書いていることになる。いわば可能性の芸術。いつだってそう。不可能を書くのではない」

ブラッドベリ、自作を語る』P355

 レイ・ブラッドベリ作品はSFというより、ファンタジーであるということは、どの評者も共通の認識で、彼が「ビッグ・スリー」に入らない(収まらない?)理由もそこにあるのだろう。彼のイメージの根源には、植民地からゴールドラッシュを経て西部開拓精神が終わり、ユートピア精神から都市文化の発展へと内省的に向かってゆくアメリカの歴史が色濃く反映されていて、幻想的なイメージが先行した結果、宇宙という抽象的なユートピアに舞台を見出したのは当然のことようにも思える。そういう意味では、彼の作品もれっきとしたSFで、広義のSFとかいうよく分からない間口に明らかに貢献していることは誰も口をはさむことはないだろう。

 最後に参考にした本とおすすめの作品を紹介しておきたい。おすすめの作品については、数多くのSF作品を紹介している書評家の牧眞司氏のものを取りあげた。僕個人もブラッドベリ初心者なので、これから読むためのガイドブックにしたい。参考にした本については、ほとんどトリビア的な内容で退屈になるが、彼の読書経験や当時のアメリカについて、そして彼がSFにどう向き合っていたかを知ることができる内容だ。

 

≪おすすめのブラッドベリ作品≫

①『十月はたそがれの国』(創元SF文庫)

②『ウは宇宙船のウ』&『スは宇宙(スペース)のス』(創元SF文庫)

③『万華鏡』(東京創元社

【今週はこれを読め! SF編】「ブラッドベリというジャンル」の二十六篇 - 牧眞司|WEB本の雑誌

 

 ≪参考にした本≫

 

ブラッドベリ、自作を語る

ブラッドベリ、自作を語る

 

 

 

ブラッドベリ年代記

ブラッドベリ年代記

 

 

 

世界SF全集 第29巻 「小松左京」

 

小松左京とは誰か?】

 

f:id:realreference:20161106232455j:plain(著者と本棚。)

 

 世界のSF作家で「ビッグ・スリー」(アーサー・C・クラークアイザック・アシモフロバート・A・ハインライン)と呼ばれる人たちがいたように、日本のSF作家の草分け的存在として「御三家」と呼ばれる作家たちがいる。今回取り上げる小松左京という人は、その御三家のうちの一人で、筒井康隆星新一と並び、戦後日本のSFを牽引した作家として有名だ。この「御三家」と呼称される日本のSF作家たちの業績は、国内において広く読み親しまれたという意味で、今もなお多大な影響を与え続けているのは確かなことだろう。

 小松左京(1931~2011)は、単なるSF作家という職業だけにとどまらず、1970年の大阪万博ではサブ・プロデューサーとして活躍したり、関西の官僚や政治家のブレイン役としての役割を担ったり、テレビに出演したりとさまざまな媒体・ジャンル・メディアに手を広げ活躍をした人物らしい。彼のように旺盛な行動力と広い人脈を持っていたSF作家は、日本のSF界的にはなかなかおらず、21世紀の現代においても比肩されるような作家はほとんどいないとさえ言われている。

 いったいなぜ彼はSF作家という、マイナーな職業に就きながら広範な人脈と影響を与える存在になったのだろうか?小松左京という作家像はどんなものだったのだろうか?そして、このSF全集に収められた作品にはどのような意味があったのだろうか?それを知るためにはまず、彼の生まれた時代と彼が影響を受けたものについて知る必要がある。

 

【SF作家、小松左京の経歴】

 小松左京は1931年の大阪市西区で生まれ、幼いころは相撲や野球よりも、歌とマンガと映画に熱中した少年だった。小学校に入学した年に日中戦争が始まり、10歳の時には第二次世界大戦の開戦した日本を体験している。開戦当初の日本の空気について小松は、

 「やがて空襲が始まり、食料も欠乏して、世の中が暗く窮屈になるが、開戦のころは世間全体が威勢が良く、明るかった。軍事兵器の開発が進み、精密機械も急ピッチで進化しはじめて、日本はぐんぐん進歩しているんだ、と実感できて、何だかワクワクした。飛行機、ラジオ、自動車、鉄道……。科学の発展に目を見張る思いがしたものだった。」(『小松左京自伝 実存を求めて』P13より)

と、述懐している。少年時代には純粋に「日本は一等国なんだ」と信じて疑わず、生来ひょうきん者で、人を笑わせることに喜びを感じる旺盛な性格だったようだ。やがて終戦を迎え、14歳の小松左京が実感したのは、

 「心身に染みついていた恐怖感が薄紙をはぐようにゆっくり消えていった。だが、解放感も喜びもすぐにはわいてこず、気だるい虚脱感だけが残った。」(『小松左京 自伝 実存を求めて』P25より)

という抑圧から解放された虚無感だったようで、この時の「もしも、日本が終戦しなかったら…」という歴史のイフから、彼のSF作家的な想像力が生まれている。

 その後、京都大学でイタリア文学を専攻し、漫才の台本やラジオ放送の脚本、マンガの執筆などを経て、29歳の時に「地には平和を」(1961年)でSF作家としてデビューする。デビュー後は、『復活の日』や『日本沈没』などが代表作となり、のち角川映画で大々的に取り上げられるほどの作家になる。90年代になると、阪神淡路大震災の被災体験によるショックを受け、活動が低迷するがその後も「SF魂」や自伝を著したのち2011年に亡くなる。

 学生時代に影響を受けた作品は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やダンテの『神曲』、カフカの『変身』、日本文学では埴谷雄高の『死霊』、野間宏の『暗い絵』などで、他にもカミュの『ペスト』や『異邦人』、アンドレ・マルローやウィリアム・フォークナーなど海外のSF作品や安部公房にも心酔していたようだ。また、哲学の分野ではフッサールの『純粋現象学』を大学のノート三冊におよぶメモをとりながら読んだというエピソードなどがある。 

 

【作風と評価】

 彼の作風は壮大で、人類や生命の深淵や本質とはいったい何なのかという思弁的な、難しい主題をSFという手法によって扱っている。この哲学的な主題は、1960年代に流行っていた実存主義の影響によるところが強い。ジャン・ポール・サルトルに代表される実存主義は、「私はこの広い世界(もしくは宇宙)に存在することで、いったいどんな意味や関係性があるのか」を追い求める思想で、戦後の知識人たちはこの問題についてよく議論をした。小松左京の壮大な広さは、こうした世界の広さに対する、自分と言う生命体の行く末を想像した疑問から発生している。戦争の荒廃から復興へと進む時代を生きる人々は、焼け跡がビル街へと変貌してゆく時代の中で、虚無感と再興を同時に感じながら活動していた。彼の広い人脈と行動力は、実存主義的な想像力と並はずれた好奇心に拠るところがある。

 また小説にとどまらず、評論やエッセイ、紀行文なども大量に書いている。その旺盛な作家活動は、意外なことに当時の文壇での評価は決して高くはなかったようだ。それは当時の日本の文壇にとっては、SFの評価が「子供の読み物」として低く見られていたことが原因で、一般的にもSFという概念はあまりよく知られていなかったらしい。しかしその中でも、純文学系の作家で高く評価していた人物がおり、開高健北杜夫といった作家は小松左京とよく親しんでいたとされる。代表作『復活の日』が発表されたあと、東京オリンピックを境に普及し始めたカラーテレビの影響などもあって、SFが知られるようになると、彼の作家としての立場は確固としたものとなった。

 現代における小松左京の評価は、小説の文体表現としてはあまり上手くない。また、日本SF界を一人で牽引したことにより、功罪相半ばする部分もあるらしいが、基本的に作品の広大な世界観や文化論に影響を受けた人物は多く、今でも日本SF界においては伝説的な人物とされていることに変わりはないようだ。

 

 

【所収作品①:『継ぐのは誰か?』】

 今回の『世界SF全集第29巻 小松左京』には、『継ぐのは誰か?』と『果てしなき流れの果に』の2作品が収録されている。まずは前半の『継ぐのは誰か?』について書くことにしよう。

 『継ぐのは誰か?』は、1968年に『SFマガジン』で連載された長編小説で、1970年に世界SF全集で収録されたのち、1972年に単行本化された作品だ。この小説は、大学都市の中でおこる奇妙な殺人事件の犯人を探っていくうちに、人類よりも高度な生命体の存在が明らかになってきて、人類と新人類との衝突をめぐって人類の文明論を展開する物語だ。物語のペーストは、犯人探しのミステリー要素と大学院生たちの成長を描いた青春小説的な部分が組み合わさっており、舞台は近未来のヴァージニア大学都市から始まっている。 登場人物はかなり多く、モブキャラも含めると30人以上の人物が登場している。主人公は大学院生のヤマザキ・タツヤで、ヒロインにはフウ・リャンという中国系の大学院生がいる。物語の序盤では基本的に主人公を含めて11人の大学院生(チャーリイ、フウ・リャン、アドルフ・リヒター、クーヤ・ヘンウィック、ディミトロフ・ポドキン、ホアン・クリストバル・ディアス、チャールズ・モーティマー、サム・リンカーン、ヴィクトール、ミナ・コローディ)がいて、その傍らにIQが低いが感応能力が優れているジャコポという黒人の子供によって犯人探しが展開される。やがて殺人予告には、GCT(Global Crime Trust)という国際テロリストのような世界犯罪組織が関わっていることが分かり、ニューヨークに隠遁している賢者ヒンディ・ナハティガルや中盤以降では国際科学警察のICPOという組織に所属する人間や博士たちが介入し、舞台は南米へと移動する。 後半では、新人類の住む場所で人類は大きな選択を迫られる…。

 この作品を初めて読む場合は、人物の相関関係を微細に辿りながら物語のテーマを理解しようとするのではなく、キャラクターの行動をざっくり読みながら、この作品の大きなテーマはいったい何なのかを先に探った方が良いように思った。タイトルの『継ぐのは誰か?』は、地球上の生命体で文明を築き、頂点に君臨した人類のあとにどんな生き物がそれを継承し得るのかという疑問を投げかけている。人類の「種」の直系かあるいは傍系から、人間の文明を凌駕する新しい王者となる「亜種」はどこからやってきて、文明に終末を与えるのは誰なのか?『継ぐのは誰か?』は、そうした社会全体に危機を与える存在をシミュレーションしたSF小説となっている。

 またこの作品世界では、現代でいう人工知能のような機械が登場し、現代のグーグル検索のような存在として、本というものが電子脳ネットワークによって代替され、ほぼ消滅しかけている点も興味深い。この世界において、多くの優秀な学者や教授が登場するが、新人類の超能力には太刀打ちできないまま、殺人が遂行されてしまう。この電子脳という存在は、アカデミズムの到達した発明品として魅力的に見える反面、大学都市に居住する知的エリートたちがなす術もなく敗北してしまう無力感へと読者を導いている。登場人物の一人、ヤング教授は「科学は、人類の滅亡をすくうために、一肌ぬいだりしませんよ」と言い、作者はこの部分に関して、サルトルの「認識論的実存主義」に対する「科学的実存主義」を考えたとしている。

 認識というのは自己を中心にして起こる物事であり、そこで生まれる実存は自己肯定でしか進歩がない。科学的実存主義というのはつまり、適者生存の中で勝者と敗者に分かれてしまうことを認識した前提に立って、生存競争の道ではなく、共存や棲み分けを目指す考えだとしている。しかし物語の後半で、主人公たち人間は意識せずにその科学的実存主義、新人類との共存の道を摘む選択に行ってしまう。『継ぐのは誰か?』は、そうした人間、自我の選択によって何かが失われていく可能性の想像を誘い、その中で発生する苦悩や葛藤を描いた物語で、読後の滲むような苦くて、しかしささやかな「ある」感覚はなかなか味わえないものがある。

 

 

継ぐのは誰か? (ハルキ文庫)

継ぐのは誰か? (ハルキ文庫)

 

 

 

【所収作品②:『果てしなき流れの果に』】

 『果てしなき流れの果に』は、1965年に『SFマガジン』に連載された長編小説で、恐竜時代から未来を含んだ10億年のスケールで描かれている。作品冒頭は、恐竜時代の破滅が舞台で、剣竜というステゴサウルスのような生き物とティラノサウルスの衝突、そして、洞窟の中で鳴り響く金色の電話機が象徴的に登場する。場面が変わって現代へと移り、奇妙な構造の砂時計をめぐって主人公の野々村たち学者やヒロインの佐世子の運命が綴られる。第3章以降は主人公が実質いなくなり、マツラとルキッフという2つの派閥が過去や遠い未来で激しく衝突しあう物語へと変化する。

 主題はタイトルにある通り、時の流れの果てにあるものは何か、宇宙の虚無のなかに存在する人間の意識の広がりは、いったい何の意味があるのかを問いかけている。物語終盤では、大きな「悪」の存在が設置されており、生命進化を管理する存在へのアンチテーゼとなっており、必要悪的なものへの肯定を提示することにより、創造と破壊について全体性のバランスという立場から止揚を試みている。

 作者によると、この哲学的なテーマへの最初の契機は、実存主義であって、そこからフッサールの『純粋現象学』という書物からも影響を受けて、宇宙という広大なものを「存在の鏡」として見立てることにより、普通ならその関係が分からないものを、論理的な手法を取ることによって、その相関性を想像しているのだという。

 この話の特徴は、時代が容赦なく移動するところにあって、一気に未来へと舞台が移ってしまうため、小松左京作品に慣れ親しんでいない読者は面食らい、混乱してくる。また、『継ぐのは誰か?』よりも登場人物は増えて、全章合わせて40人以上のキャラクターがばらばらに配置されているため、詳しい相関関係を把握することも初読の段階では難しい。しかし、『継ぐのは誰か?』と同じく、それでも物語の概要や軸は漠然と想像できるのが小松左京作品の面白いところであり、それが正しい読み方なのかもしれない。

 『果てしなき流れの果に』の着想は、第二次大戦後でも戦地に留まり続けた横井庄一さんのような人間の話からはじまり、それはギリシャ神話の『オデッセイ』や日本の『浦島太郎』のようなものとして昔からあったエピソードをモチーフにしたようだ。また、当時考古学の分野で発掘調査が進んでおり、大阪和歌山の県境に面する和泉山脈で土器や石器の出土を知ったことからも要素を取り込んでいるという。佐世子のモデルに関しては、「エリアを行く」という紀行文を書いた時にわかった、松浦佐用姫(まつらさよひめ)の伝説が題材となっている。佐用子のもとへやってくる老人の正体については、読者の想像に任せられている。それはあえて特定しないことで、名指されない赤の他人との実存を分かち合う意味も込められているのだろう。

 この壮大な宇宙小説の形式を取った作品は、『果てしなき流れの果に』のあとに何度か試みており、『神への長い道』(1967年)、『結晶星団』(1972年)、『ゴルディアスの結び目』(1976年)、『さよならジュピター』(1980年)、『虚無回廊』(1986年 未完)へとテーマが続いている。

 『継ぐのは誰か?』では、新人類との共存を目指した結果、人類の無意識の中に設定された必然的な失敗が描かれているのに対し、『果てしなき流れの果に』においては、生命の管理が行き届かない大いなる破壊者の肯定が要素として含まれているため、分かち合いと分かち合えないものの道をパラドックスを認めたうえで、その全体性へ視点を変え、重要性を説こうとしている。この点に関して、登場人物のハンスは弱弱しく訴えかけてくる。

「死ぬべきものも、生きのびるものも、すべて同じ種の一つの心によって共有の未来のために、えらび、えらばれた。えらばれたものは、のこったものの全存在を負うている。すべては、この時代の、この同胞――異なった運命を生きながら、今は同じ断崖に立たされている同一の種族が、その総意によって、えらんだ道だ。――あなたは、その共同体の運命を見すてるのか?見すてて、自分だけが、他の存在によってえらばれたものの道を歩もうとするのか?」

 とはいえ、共存や共同体の運命を見捨てない選択は、選択者がその過酷な責任と覚悟を担わなければいけない。それは簡単に解決もつかず、ともすれば自分の選択によって、『継ぐのは誰か?』の人類のような結末を迎えてしまいかねない。『果てしなき流れの果に』は、時空を超えたスパンの中で、多くの登場人物がそれぞれの選択に迫られる姿を読者が追いかける物語だ。

 

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

 

 

 

【月報・解説】

 

f:id:realreference:20161106235702j:plain(月報と函。)

 

 世界SF全集第29巻「小松左京」は、第21回目の配本。1970年刊行なので、小松左京も関わった大阪万博に合わせた配本だったのだろう。月報に寄稿したのは、星新一「外見の問題」、加藤秀俊「左京さんのババ抜き」、手塚治虫「ピザロの白鳥的怪物」の3人。星新一は、小松左京の異名でもある「SF界のブルドーザー」について書いており、建設用機器メーカーの小松製作所にひっかけたシャレであるとした上で、bullは牡牛で、dozeはぐうぐう眠るという意味があり、「強い牡牛をも眠ったようにおとなしくさせてしまう、おそるべき力をそなえたもの」という評価に、さらに小松左京は博学多識であると付け足している。評論家の加藤秀俊は、国際未来学会議での小松左京の精力的な働きを書いており、作品の前にまず小松左京という人間の広大さがあるのだと評している。手塚治虫は、時間と場所に対する貪欲さが、焼け跡派と称する昭和一桁代の文化人に共通する性格としている。「ピザロの白鳥的怪物」とは、野心と根性にあふれ冒険好きな反面、社交家な人物のロッシーニの異名「ピザロの白鳥」のことだ。

 この全集の解説を担当したのは、石川喬司で「小松左京の宇宙」というタイトルだ。当時は国際SFシンポジウムが日本で開かれたようで、冒頭でその大要を取り挙げつつ、SFというイメージ手法が、いかに社会的感性の基礎に根差しているかを述べている。また、小松左京がSF作家になる前の苦悩、星新一が開いた道を精密なコンピューター付きブルドーザーが地ならししたと評している。

 また小松左京がSFに開眼したきっかけとなった作品は、『SFマガジン』創刊号(1959年12月)巻頭シェクリイの「危機の報酬」だとしているのは単純に興味深い。小松左京は、正攻法で文学にしようとすれば膨大な資料と筆力が必要となる題材を裏返した形で、ごく短いものにまとめられるSFの可能性が、いかに有用であり、自身の戦争体験の芯の部分をすくい上げたのかを述べており、解説の石川喬司はそれを意識的に純文学から遠ざかろうとしているところに、小松の新しさがあるのだと認めている。

 

【感想】

  この全集と、それに関連した2冊の本(『小松左京自伝 実存を求めて』、『追悼 小松左京 日本・未来・文学、そしてSF』)を読んでみると、小松左京という人物が戦後復興期と経済成長の日本でどれだけ多くの人に影響を与えたのかが分かった。でも、僕の世代の90年代、そして北東北に住んでいた僕の同級生や図書館の中では、話題になることも触れられることもなかったので、フックになる部分はあまりにも少なかった。それはやっぱり、時代が異なることと関西圏ではないことに原因があると思う。自分の親の世代が大阪万博に行ったわけでもなく、近くには太陽の塔国立民族学博物館のような壮大なものもない。そういう地理的要因の中で、自らフックを作っていき昔のSFを読むには、作家の経歴から自分の引っかかる部分を見つけたり、映像作品のイメージから入っていくのも良いだろう。僕の場合は、社会学的な視点や分析から入ると、必ず退屈になるので、初めに自分で物語のイメージを作っていく感覚で読むと、初読の入り口として手触りがある気がする。

  SFというのは、映画作品などで初めて知り、その視覚的衝撃から入っているので、原作を読む場合はおとぎ話のように遠い話に感じるほど、距離感のあるイメージを遡行していかないといけない。自分の身近な物事との関係性は直接的になく、またSF好きな人たちが集まる場所もきっかけもない。そういう中で、今回のSF全集に収められた2作の長編小説は、遡行の甲斐がある読後感が得られた。ただし、『継ぐのは誰か?』を初読したあと連続で、『果てしなき流れの果に』へと入るのは無理だった。第1章の剣竜までは導入としてまだわかる。でも、その後の2章から始まる物語は、『継ぐのは誰か?』の問題提起をどこかで整理しないことには始まらなかった。

 この2作品で、一番衝撃を受けた場面は、『果てしなき流れの果に』の第2章終盤だった。この容赦のない時代の移り変わりを想像するのに慣れていない僕は、主人公たちの事件がどうなってしまったのか、一件落着されない状態に悶々とせざるえなかった。第2章までの衝撃は、時間の流れに逆らえない残酷な現実感が襲ってきており、序盤の展開はその後のSFを引き立たせるようなリアリティだ。正直、この作品の全体と人物の相関図について、僕はまだ理解していない部分があり、混乱している。本当は、登場人物はあまり重要でないのかもしれない。とはいっても、作品紹介に書いた通り、話の全体像のようなものは不思議と見えた気がする、というのが初読で感じた小松作品の特徴だ。また、小松作品においては、物語の展開や理論的な補強を施すために、研究機関や大学から教授が送り込まれ、突然何か学術的な講義を始めるシーンが挿入される、というのも小松作品の特徴ではないだろうか?太陽学や普遍生物学についての高説を読んで、「ああ、そういうことか」とは基本的にならない。ならないけれども、知ったかぶってページをめくり続けるほかないのが、SFを読むときのコツなんじゃないだろうか。教授の話は、あとで調べて物語の構造に付与する理論がどう組み合わさっているのかを考えるのが良い。

 人間の実存や認識は、宇宙にとって何なのか。それは、壮大であり深淵な問いかけで、普通僕たちが生活していて到達しないものだ。SFによく登場するタイムマシンやロボット、人工知能ディストピアなどに提示された未来観のリアリティは、いくつもの選択が広がった人間の先に待ち受ける世界観の欠片ともいえる。それはこの世のすべての災いが入ったパンドラの箱が解放された際、唯一封印したとされる、未来予知を想像し、思索と遊戯を重ねた人間が開発した物語として、現実の裏側に残されている。

僕はまだ、小松左京の世界観という大きな山を入ったばかりの人間だ。ファンの人から見れば、「いやいや、小松さんにはこういうところがあって…」と正されること間違いない。しかし、そんなことは知ったことじゃない。もしかしたら、小松左京ファンはもう近くにいないのかもしれないから。

  とにかく、今回小松左京を取りあげてデカすぎる小松山脈を登ってしまい引き返せなくなったので、一種の向こう見ずな登山者が来たと思ってもらいたい。

最後に、参考にした本を。これらの本では、ファンたちの熱い思い出などが語られているので、読んでいて面白く、また小松左京は後期の作家活動として、きちんと自伝を遺しているのは見逃せない功績ではないだろうか。彼の活躍は確かに2010年代まで、大きな影響を及ぼしたのかもしれない。しかしもう小松左京という作家はいない。小松左京は、自伝の中でSFについてのメッセージを遺している。

 

 「これからSFはどうなるか。君たちどう思う?僕はもう仕事は果たしたからさ。あとは引退した傍観者として。」

 

小松左京自伝―実存を求めて

小松左京自伝―実存を求めて

 

 

 

小松左京---日本・未来・文学、そしてSF (文藝別冊)

小松左京---日本・未来・文学、そしてSF (文藝別冊)

 

 

 

 

 

世界SF全集 第12巻「ロバート・A・ハインライン」

 どんなジャンルにも世界三大~というものが存在するけれど、SFにも世界三大SF作家、通称「ビッグ3」と呼ばれるような偉大な功績を遺した作家が存在する。

 今回取り上げるのはそのうちの一人で、アメリカのSF作家で「SF界の長老」とも呼ばれた、ロバート・アンソン・ハインライン(1907~1988)という人物の作品だ。

 

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(ロバート・A・ハインラインの写真)

 

 1971年に刊行された、早川書房の『世界SF全集』第12巻に収められた作品は、「人形つかい」と「夏への扉」の2作品である。

 

 「夏への扉」は、SF小説に疎い人間である僕でもなんとなく、その内容は聞いたことがあった。中学時代に「涼宮ハルヒの憂鬱」というライトノベルが学校で流行っていたとき、作中に登場する長門有希というアンドロイドが愛読する百冊の本の中に、この世界SF全集のハインライン巻が紹介されていた。

 その当時は単純に物語の展開を暗示する本として知り、タイムマシンを扱った小説、という認識だった。また、ライトノベルや文学全般にほとんど興味のなかった僕は、肝心の本を読まなかった。

今から考えてみると、この時からSF作品との出会いが遠からずあったのかもしれない。

 

【SF作家、ハインラインの経歴】

ここで、大まかにハインラインの経歴がどのようなものだったかを書いてみる。

 ハインラインの作家活動は大きく分けて初期・中期・後期に分割されるようだ。

 

初期(1939~1958)

処女長編小説を書くが売れず、短編小説を雑誌に売り続けていくにつれ、人気を博した。青少年向けの小説を取り上げ、ボーイスカウトの雑誌にも発表していた。

 

 ハインラインが青少年向けに書いた作品は "the Heinlein juveniles" と呼ばれ、青年期と大人のテーマの混合を特徴とする。これら作品で彼が描く問題の多くは、青年期の読者が経験するような問題と関連している。

今日のジュブナイル小説などの先駆的な作品を描き、基本的には青少年の冒険譚的な要素が頻出する。

 

 ・中期(1961~1973)

 

 個人主義、自由恋愛、リバタリアリズム(自由主義)などをテーマとした作品を書く。

最高傑作と名高い、『月は無慈悲な夜の女王』を発表したのもこの時期。

はじめてファンタジー長編小説を書く。

 

後期(1980~1987)

体調の悪化に伴い、作家活動は停滞。

作品評価もあまりよくないものが多い。

長年の経験による、哲学的な要素が濃いテーマ(宗教・人生論)などの長編や新たなSF文学の境界の拡張を試みた作品を書く。

 

 

 

 特徴として、ハインラインという作家は冒険活劇的でいてSFの思弁的な内容表現に定評があった作家だったという事が分かる。

加えて、ハインラインの技巧を感じさせない技巧と称されるリアルな作風は、物語の理論的な構成と相まって、“ハインライネスク”といわれている

ただし、それはハインラインという作家の一部分に過ぎず、政治的な立場がコロコロと移動していたこともあったのを考えると、多面的な性格をSF作品に持ち味として活かすことができた作家だった、と言ったほうが適切なのかもしれない。

 また、彼は作家になる以前には軍隊に所属しており、もし病で退役していなければSF作家ではなく、非常に優秀な海軍将官としてのハインラインが存在していたとされる。

 1930年代の彼は、熱心な自由主義に傾倒していたとされ、政治家を目指したりヌーディズムを信奉していたことから、彼の創作活動の営みには規律の厳しい模範的な軍隊生活からの解放による影響が大きいように思われる。

ちなみに、今回読んだ『夏への扉』にも主人公を助ける人物としてヌーディストの夫婦が登場する。

 

 

人形つかい夏への扉

 

 

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人形つかい

 SF作品の中でも有名すぎるこの2作品について、Wikipediaやさまざまな人が書評やレビューをネット上に書いているので、今さら話のあらすじを書く必要もないと思うが、あえて紹介すると「人形つかい」は、ナメクジに類似した地球外生物が侵略してきて、人間に憑りつき人々を操る。アメリカの秘密機関に所属する主人公は、おやじ(オールドマン)やヒロインのメアリと共に、侵略に抵抗するという話だ。

 このSF全集の解説は、SF作品の翻訳者として有名な福島正実が担当している。

 

 人形つかいが発表されたアメリカの時代背景は、1951年の朝鮮戦争という悲劇をアメリカが体験しつつあった時であり、共産主義との対立が激化した時代だったとされる。

自由を掲げるアメリカは、常に力を示すことでその立場を勝ち取ってきた。

人形つかい」には、国外の脅威となる侵略者の存在を反映させたところがあることは言うまでもない。

かつて海軍士官だった典型的アメリカ人気質のハインラインとしては、個人主義的に国を防衛しようと奔走する主人公の行動は、彼の国家に対する思想がうかがえるようだ。

物語の中盤では、異星人に操られた議員が議会に登場し、多数決の原理で動く議場を皮肉的に描いている。アメリカの弱点は、こうした多数の侵略者には通常の議会制民主主義を否定しなければならないことにあるということをナメクジのような異星人を使い表現している。

こうした国家の危機をリアルに描いた侵略者SFものとして、「人形つかい」は評価が高い。

ちなみにこの作品を書いた後、1956年には「太陽系帝国の危機」で第一回ヒューゴー賞を獲得している。

 

 

夏への扉

 この作品は、タイムマシンが登場するSFとして人気があるとされるが、それは日本国内での評価であって海外ではそれほど人気ではないようだ。

夏への扉」は、“文化女中器”(ハイヤード・ガール)という家事や掃除をするロボットを発明した主人公が、親友と思っていた同僚と美人秘書に騙されて冷凍催眠を受け、30年後の世界に飛ばされてしまう話だ。

 猫小説とも呼ばれ、タイトルの「夏への扉」は主人公が飼っている猫(ピート)が、冬の時期には存在しえない暖かい外の世界へつながる扉を意味する。

ちなみに、ハインラインは猫好きで知られ、両作品ともに猫が登場する。

 現代の観点では、この“文化女中器”という造語に反感を抱く人もいるかもしれないなと、読みながら思った。が、物語内では男性型の家事ロボットも登場する。

人形つかい」のように、国家の侵略のような大きな題材を取り扱ってはいないが、この作品はタイムスリップというSFの定番を扱っている。

2つの作に共通するのは、主人公がタフな個人主義でもって不条理な状況に対抗するという点にある。

この行動主義的な要素は、ハインラインヒューマニズムによるところが大きい。

時には理性的でなく喧嘩早さや、がめつさによって人間個人の尊厳が保たれるとする彼の思想は、「虎の法則」と呼ばれる。

 

 

【感想】

 SF好きには有名な海外の作品を今回読んでみて、SF作品の広大な世界設定とその自由な発想に引き込まれるところがあった。日本国内で「夏への扉」の人気が高い理由の一つには、やっぱり猫が登場し、猫を見ている表現が面白いからだ。

これは夏目漱石の「吾輩は猫である」以来の伝統なのではないだろうか?

 

例えば、

「ピートが悲しげに泣いたのはそのときだ。猫はめったなことでは悲しげに泣かない。一生聞かない人もいる。喧嘩でどんなに深手を負っても、猫は決して泣きごとはいわない。猫がこうした声を出すのは、深い悲しみに胸をえぐられたときー耐えられぬ悲しみに胸ふたがれながら、それをどうする力もないことを覚ったときに限られているのだ」

 

「ピートがボストンから飛び出して、つつと床を横切ると、ぼくがぐったりと身を横たえているところまで来て、どうしたのかと訊いた。ぼくがなにも答えないのを見ると、彼は僕のむこう脛をぐいぐいとゆすりながら、なおも返事を要求した。それでも僕がなんの反応も示さないと見てとるや、ピートはひらりとぼくの膝に飛び乗った。そして、前脚をぼくの胸にかけ、ぼくの目をじっとのぞきこんだ。ぼくの身に、冗談ごとでなく変事がおこったことを覚ったのだ。」

 

など色々ありほかにも面白い描写があったりして、深刻な場面でもなぜか笑えてくる。

猫小説と呼ばれるけれども、決して猫が中心の「ノラや」のような話ではないのでそこらへんは注意(?)が必要だ。

 

 さて、ハインラインの作品の魅力を書いてみたけど、僕は決して楽に読んだわけではない。

今となっては古典SFに分類されるこの作品を読んでみて、やっぱり古臭さと退屈さがあった。それは、SFというジャンルを映画という視覚的なもので楽しむことに慣れ過ぎた現代人としては、いちいち未来の世界を自分で想像しなければならない手間があり、未来の発明品がどういうものか具体的に浮かび上がってこない部分があった。

夏への扉」には、パンチ・カードというカード・スリッジ型の記憶媒体があったり、IDカードを電話に差し込まなければ電話ができない辺りには、スマホが普及してしまった昨今とのアナログ的な差がどうしてもあったし、僕はSF世界を想像するためにやっぱり手塚治虫の作品を仮想してから照らし合わせていた。

夏への扉」で描かれる未来は、1970年の人々が憧れた2000年である。

2000年は、今からもう15年前の出来事なのだ。

それはどうしても古くて、インターネットが普及した僕たちには昔話のような退屈さがある。そう考えると、現代は意外とSF的世界へ順調に(?)進んだのかもしれない。

 

 最後に文句っぽくなってしまったけど、ハインラインの作品は現代のSFではないにしろ、1970年代の人々が描いた未来世界としてきちんと今現在も動いているのは評価すべきだと思う。ハインラインの偉大さは、当時の人々が想像していた未来を作品に封じ込めたところにあることを忘れてはいけないと思う。

 

 

あれこれ書き終えて、今日は5月1日だ。「夏への扉」では、主人公と、ある人物が再会を果たす重要な日付になっている。期せずしてこの日に出来上がったのは「夏への扉」の影響だろうか?偶然でなければ、少なくとも、僕はピートの扉を開けてしまった。

ちなみにいうと、主人公はロリコンではないと思うが、どうかとは思うところは正直あった。(笑)

 

 冗談ぽく書いたが、内容が気になったなら読んでみるのもいいかもしれない。現代との未来の捉え方について見てみるのは有意義な読書体験なはずだ。

実はハインライン作品の最高傑作は「月は無慈悲な夜の女王」らしいので、今度読みたいと思う。これは、ガンダムの設定の元ネタともされており、ちょっと期待している。

さて、ハインライン巻を読み終えたので、僕は次のSF世界へ移動しようと思う。

 

 

 

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

人形つかい (ハヤカワ文庫SF)

人形つかい (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

『スノードーム』の雪の中

 青春時代に読んだ本の一冊は、日本人の純文学作家のものだといくつかあるけれど、それよりも強く印象に残っているのは、イギリスの作家アレックス・シアラーが書いた長編小説『スノードーム』だ。

 

 『スノードーム』は、失踪した若手研究者を探るため、彼の部屋に残された原稿とスノードームの話を主人公が語るという内容で、ヤングアダルトな長編小説だ。

 著者のアレックス・シアラーは、元々はラジオドラマの脚本などを手がけていた人で、少年少女の冒険小説に定評のあるイギリスの作家で、日本では『チョコレート・アンダーグラウンド』という小説が、アニメーション映画になるくらいには名が知られている。

  

僕がこの作品に引き込まれたのはエピグラフの部分、

 

「はじめてここへきた者のように

 不思議なことに出会い、不思議な実を愛でる

 この美しい世界にゆだねられた不思議な宝が姿をあらわす

 わたしにはまったく未知の宝が」

 

トーマス・トラハーン

 

それと冒頭部分の、

 

「秀才にかぎってたいていがすぐダメになる。大学なりどこなり出たてでここへきたときは、資格証明書の類をこれみよがしにぶらさげ、どんなことでも解決してみせますといった顔をしているくせに。どんな質問でも、まだたずねられもしないうちから、答えがわかってますというふうに。だが、そんなやつらは長続きはしない—――」

 

という導入部分に引き込まれた。

 『スノードーム』という作品は、子供向きの小説とジャンル付けされているが、決して安直な冒険譚だとか、ファンタジーノベライズではない。

この作品は、Y・A(ヤングアダルト)という青少年向けの作品を書き続けている著者の作品群でも特殊な作品で、年齢を超えて読まれているクロス・オーバーな作品だと思う。

 

 では、青春の一冊としての『スノードーム』はどんなものであったのか。これを書かなければならない。

 端的に言って、僕の青春は極めて鬱屈としたものだったと思う。

 「花の10代」とすら言われる貴重な10代後半の時期を、僕はほとんど引きこもりや、人間不信、机の上、自分の部屋で過ごしてしまった。それは今もなお、高校生の姿に羨ましさを覚えるほどに強烈に残っていて、当時を思い返すたびに寂しさで心が締め付けられるような痛みとして残っている。

 

 僕が彼の作品に出会うきっかけとなった『スノードーム』を読んだときは19歳だった。その時は、読みやすい印象はあったけれども、小・中学生などが対象のヤングアダルトというジャンルとしてではなく、普通の純文学の海外小説という認識で読んでいた。

 僕は当時、大学受験をするために浪人し、毎日ひたすら往復2時間かけて予備校に通うだけの味気ない日々を送っていて、友達もおらず寂しくて空しい時間を過ごしていていた。予備校の近くには大きな市立図書館があり、田舎だったせいもあって帰りによく電車の待ち合わせのために使っていた。

 図書館の本棚から『スノードーム』を見つけ、手にしたときはちょうど雪が降り始めた時期で、僕は大学受験の“絶対に受からなければならない”という差し迫った焦燥感に体が参ってしまい、低血圧で動けなくなったあとに再び予備校に通い始めたときだった。

 当たり前だが受験生にとって冬の時期に体調を崩すなんていうのは、大きなリスクがある。高校生でない僕にとっては、「敗北」を意味するものであり、今まで誰にも相談できず遊び相手もおらず、息抜きもすべて自家発電的に消化していたものが押し寄せて、心がボキッと、折られた感じがした。

残された期間は1か月と少しだけ。かつてない焦りに襲われ、時間が一秒たりとも惜しい。そんなときに僕は何を思ったのか図書館に行って、『スノードーム』を読むことに没頭し始めた。

もちろん、朝から日暮れまでは以前のように予備校へ通う。しかし、強風の影響で一時間以上遅延することが多くなった帰りの時間を、その日の息抜きのような感覚で図書館に行き、読書をしたのだ。

 僕はその時、生まれて初めて読書に熱中している自分に気がついた。毎日毎日、図書館の本棚から取り出して続きのページを開く。ただ単に、読み終えていない物語の続きが気になるのだ。

 日が暮れてからの図書館へ向かう道は、街並みの喧騒が雪の中に圧縮されてしまったかのように静かで、雪を踏みしめる自分の足音だけが聞こえ、高校までの勉強範囲を繰り返すだけの孤独で寂しい日常を思い知らされている感じがした。

でもそれは、どこか爽やかな寂しさへと変わっていって、昨日自分が歩いた足跡が図書館へと続いているのを見つけたりすると不思議と、

 

「これでいいんだ」

 

と思うようになっていた。今までの暗い生活とは違って、充実した何かがある。

やがて、物語は終盤にさしかかり年末がもうすぐやって来る頃に、僕は『スノードーム』を読み終えた。

 

「もうこの作品を読むためだけに図書館に行くことはないんだ」

「もうこれで、図書館の本棚からこの本を取り出す時間はなくなったんだ。」

 

そう思うと、最後に本を閉じて返却するのが惜しくさえ思われた。普段図書館の本を利用している人たちでも、ここまで公共の本に想い入れを持つことは少ないと思う。

 

 季節が過ぎて、僕は京都で大学生をしている。

僕の青春の1ページを締めくくった本はそういうことで、『スノードーム』ということになるだろう。

ちなみに、原題は『The Speed of Dark』(直訳すると「闇の速度」)だ。

この本に出会って分かったことは、その人の境遇に似た登場人物と読む季節、年齢や感性がぴったりとパズルのピースのように一致したとき、その人にとってかけがえのない一冊になるのだということだった。

 僕の場合、幸いにして10代の最後に出会い、貴重な読書経験をもたらしてくれた。著者のアレックス・シアラーさんには感謝の念がやまない。

  僕は浪人時代という限られた暗闇の時間の中で、エックマン達が織りなす雪の中の小さな世界へ行くチケットを手に入れられた。それは自分の意志で、図書館へ通い続けた僕の選択によるもので、作中人物チャーリーの言葉を借りれば“自分の心が導く場所に”向かったからなのかもしれない。

エピグラフの言葉通り、僕はこの本に出会い不思議な宝を手にした。

だからもし青春の一冊とは言わずとも、僕はおすすめの本を聞かれたらこの『スノードーム』を紹介するようにしている。

もしかしたらその人にとって、貴重な読書体験の光となるような物語になるかもしれないと、密かに託して。

 

スノードーム

スノードーム

 

 

特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
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世界SF全集 第27巻「安部公房」

 

 

安部公房とは?≫

 今回の全集について取りあげる前に、まず安部公房という作家の人物像をおおまかに書いておきたい。

 

  安部公房(あべ こうぼう)

作家・戯曲家・演出家。1924年(大正13年)生まれ。1993年(平成5年)没。

東京都出身、少年時代は満州(現中国東北部瀋陽市)で過ごす。高校時代からリルケハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、30ヶ国以上で翻訳出版されている。

主要作品は、小説に『壁-S・カルマ氏の犯罪』(同名短編集の第一部。この短編で芥川賞を受賞)、『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』など。

戯曲に『友達』『榎本武揚』などがある。劇団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞候補と目された。(Wikipediaより引用)

 

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 個人的に安部公房という作家は、特別な思いのある作家の一人である。僕が安部公房という作家の存在を知ったのは、正確には覚えていないけど17歳の頃だったと思う。

 当時僕は、学校に通うのがとても苦痛に感じ、そのせいで高校を半年で中退していた。その後、半年間は全く家から出ずに引きこもって、将来を描けない嫌な現実から逃避するために、ゲームをしたり家にある小説や親に頼んで借りてきた本などを内容も分からないまま、とにかく色んな作家を読んでいたりしてた。

 その思春期が極度に歪曲した人間不信状態のなかで唯一、小説を読む悦びを教えてくれたのが太宰治だった。

 しかしながら、彼の小説は一般に知られているように、ニヒリズム的で漫画のように戯画的な悲哀と可笑しさがあるけれども、最終的に彼は自殺してしまうという暗さがあり、作品に楽しさはあっても読者に未来を生き抜く提示はしなかった。

   その懊悩とした思春期の乱読時代に、変革をもたらしたのが安部公房なのである。

 どういう経緯かは覚えていないけど、本より先にYouTube上で何気なく検索した開高健の動画のリンクから、安部公房の肉声が残された動画に辿りついたんだと思う。

 その動画がこれ。(以下)

www.youtube.com

 

 これを見て、明治・大正期の作家像ばかりで止まっていた僕にとっては、映像の中で動いて、科学的な知識を持って学者と議論している文士という、初めての目にする理系的な作家という衝撃的な印象を持つ存在だった

 ただ、理系出身の作家を知らないわけではなく、森鴎外北杜夫などは知ってはいた。でも、実際に分子生物学という分野について具体的に話す姿が動画に残っているというのが衝撃的だった

 研究者と作家がこのように対談している動画がネット上に残されているのは珍しく、視野の狭かった僕には、未知の思考が展開されているような魅力があった。

 そこからリンクして、安部公房の生涯と文学観を手短にまとめた動画があって、続けて見た。

 

 

 この2つの動画を見て何に関心を抱いたかというと、あくまでも今を見るという現在の時間的連続性から文学を考える視点と、グーグルマップ的な地図のディテールについての話し、そして何より、二元論に陥りやすい物事を両義性を以て俯瞰するという思想を展開している所が10代の自分にとって新鮮だったことだ。また、文学というジャンルのみならず、演劇や映画などのメディアに展開している点も、作家が社会的にどんな役割を持っているかについて考える起点にもなった。

 

 それに加えて、偶然にも母方の祖父と同い年(大正13年)生まれで、海軍として満州に赴いた祖父との時代に対する受け止め方の比較と、僕が生まれてからちょうど半年後に安部公房が亡くなっているという事もあって、彼の作品ついて興味が深まった。

 それ以降、浪人中に「安部公房伝」や未発表の短編「天使」の掲載、そして「安部公房とわたし」などが偶然にも刊行されたり、僕は引きこもりを止めて大学進学して安部公房に感化されて演劇をしようとした結果、挫折した話もあるが、それはまた別の話だ。

 

で、現段階で僕自身の思う安部公房の特徴を簡単にまとめると以下のようになる。

 

 

初期:詩人。

   満州での故郷喪失の寂寞感。

    砂や植物に人間の寂寞感を例えた、“観念的”な文学。

 

中期:文壇デビュー。『壁ーS・カルマ氏の犯罪』で芥川賞受賞。

初期の文学観を継承し、さらに昇華した人間関係の境界を寓話的に表現した。

   三島由紀夫などの作家と対照的な立ち位置を示す。

    勅使河原監督による映画化。

 

後期:小説→演劇へ。

   精力的に劇団の創作に関わるあまり、小説家としての活動は低迷。 

 

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 さて、安部公房の生涯などについて大雑把ながら踏まえたところで、今回のSF全集について紹介したい。

 

今回取り上げた、早川書房の世界SF全集第27巻(1971年刊行)に収められた作品は以下のものである。

 

・第四間氷期

・人間そっくり

・R62号の発明

・赤い繭

・闖入者

・人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち

・永久運動

・魔法のチョーク

・デンドロカカリヤ

・ 詩人の生涯

・完全映画(トータルスコープ)

・盲腸

・鉛の卵 

 以上 13作品。

 

 

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月報と函。

寄稿は、日下実男「安部氏と氷河期」、高野斗志美「《変形人間》雑感」、石森章太郎安部公房さんのことも入ってます」 の3つ。ちなみに、この本の解説を担当したのは、奥野建男である。

 

 

《世界SF全集の時代背景》

 時代背景を考えると、この世界SF全集が初めて刊行された1968年には、川端康成ノーベル文学賞を受賞し、1969年には人類初の月面着陸があった。そして、この本が刊行される前年(1970年)には、大阪万博三島由紀夫の割腹自決事件があった。

 文壇にとって海外からも評価の高かった、第二次戦後派の代表格の一人である三島由紀夫が亡くなってしまったことは、大きな損失であっただろう。

このような文壇にとっての大事件が起きた翌年に、この本が刊行されたことを考えると、出版社側としては、もう一人の第二次戦後派の象徴として存在する安部公房という作家を、SFという新たなジャンルの浸透とともに、権威付けるための目的があったであろう。

 とはいっても、 全集にまとめられるにはそれ以前に書かれた作品がなければいけないので、安部公房が日本国内における戦後SFジャンルの黎明期に発表していたことは、純粋に評価されるべきことだろう。 

 では、具体的にこの全集の作品に触れていくことにする。

 

 

《第四間氷期

 解説においても月報においても注力して評されているのが、「第四間氷期」という長編小説である。

 第四間氷期は、海底火山の噴火の描写、横浜に向かう一隻の貨客船、そして720キロの速度で大津波がやって来るという、人類の破滅的な予兆が描かれた「序曲」から始まり、「プログラムカードNo.1],「プログラムカードNo.2」、「間奏曲」、「ブループリント」の5つの構成になっている。

 物語は、現代のいわゆるスーパーコンピュータが一種の予言機械として登場し、ソ連で開発されたのを皮切りに、日本では主人公の勝見博士が予言機械を作り出す。

 しかしどんな質問をしても、結果的に政治的な予言に関わるというバグが生じ、事象の予言ではなく個人の未来を予言するという手段によって、観測を試みる。その中で不特定対象だった人間が、予言機械にかける前にある人物によって殺され、死体を予言機械にかけて試験者がどのように殺されたのかを見るという、推理小説的な要素が入ってくる。

 その過程で、次第に意外な事実が現れ人工中絶の胎児を買い取る組織や、恐るべき未来のために水棲でも生きるように改良された人間を作ろうとする思惑が明らかになってくる。

 やがて、未来と現在の主人公が予言による未来を巡って対立し、結果的に地球が第四間氷期を迎え、陸地のほとんどが海中に沈んでしまう。“現在”の勝見博士は、“未来”の勝見博士を否定した現実を受け止める。

 場面が変わって物語の最後では、水棲人間の少年がかつての陸地に憧れて、風を感じるために海中から上り、涙線という感覚器官を取戻し息絶えてしまう。

 

 物語に示されている問題意識をあえて書くならば、人間の故郷は海であるか、土であるのかという生態の帰属意識から始まり、SFでよく使われるタイム・パラドックスの矛盾に基づいた、未来の自分によって今の自分が操られてしまうことへの反逆を描いていることだ。

 また、物語内で人間たちが水棲人間の数を増やすために、多くの女性たちが賃金と引き換えに協力している場面などもあり、環境変化にともない相互関係の優位性が逆転していく部分もあり、家畜だと思っていた水棲人間が今度は人間を支配していくという、生態系のラディカルなテーマは、痛快に人間社会を批判している。

 

   余談だが、第四間氷期に関する考察をネットで調べてみると、幾人かの人々がブログなどでそれぞれの考察をしていたので。勝手ながら作品の参考になると思い、いちファンとしてこの作品を読んだ人に向けて紹介しておきたい。

 

・予言=権力 ‐安部公房『第四間氷期』論 中野和典

https://www.cis.fukuoka-u.ac.jp/~nakanok/study/yogen.pdf#search='%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E9%96%93%E6%B0%B7%E6%9C%9F'

 

安部公房『第四間氷期』を読む kojitakenの日記

d.hatena.ne.jp

 

・『第四間氷期』と『1984年』を結ぶ糸  安部公房解読公房blog

w1allen.seesaa.net

 

 

 

 それぞれの考察が、『第四間氷期』を初めて読んだ僕には新鮮な考察に思えた。

文学比較や意味について追及している読み方は僕にはなく、初読の段階ではあくまでも物語を追うことに集中していたので、あとでこうした他者の考察を読むのも、読者同士の視点の違いが交錯していて面白いと思う。

 では、肝心の僕個人の感想はどうだったのかを書くために、まずはこの本の解説を手掛けた奥野建男が『第四間氷期』について書いた文章を引用しておきたい。

 

「 『第四間氷期』は本格的な長編SFであるが、作者はSFを書こうとして、この作品を書いたのではない。転換期の現代の状況と対決して行こうとする作者の内的モチーフが、必然的にSFという形式を取らせたといえる。

 つまり現代の本質を捉えるためには、従来の平面的、微視的、日常的見方からでは十分でなく、未来という視点を設定し、そこから逆に現代の本質をあらわにさせるという発想が必要だと作者は考えたのである。

(中略)…作者は現在の状況の中に、潜在している未来を見出し、その未来を人々の前に突き付けることによって、現代における人間の責任を描いているのだ。読んでいると、勝見博士とともに、絶えず未来から現在の態度決定を責められ、拷問を受けているような息苦しさをおぼえる。そこにおいては安直なヒューマニズムは徹底的に打ち破られる。

 未来にかけるべきか、現在の人間性を守るべきか、はたしてどちらが人間の正しい生き方か、読んでいてわからなくなる。

 

(中略)…「あとがき」で書いているように、未来を現在の考えで判断することは殆ど不可能なのだ。」

 

 僕が『第四間氷期』において考えたのは、安部公房が「あとがき」に書いたように、日常のささいな連続感に埋没している自分達が、未来という残酷なものを良くも悪くも受け止めることが約束されているという事と、水棲人間である少年が流すはずのない涙を流したのはなぜなのか、また人間と音楽の関わりについての事だ。

 物語の主軸となっているのは、やはり主人公が未来と現在に分割された状態が、人類が居住する文明社会の破滅と関わっている点にある。タイトルにあるような地球環境の変化は、あくまでも補助的な役割として物語に機能しているに過ぎず、重要視すべきなのは、人間が作ってしまった水棲人間によって文明が完全に破綻したことだろう

 そして忘れてはならない事柄として、人間は音楽を聴きながらでも殺人を行うことができるという話との関連は何か考えてみると、「プログラムシートNo.1」での一場面で印象的な、勝見博士と助手の頼木が予言機械にかける実験体を尾行するところで(チャプター7)、ごく短い場面だがのちに判明する博士と助手の思惑との相違を予感させるところではないかと思われる。

 どちらも人間ではあるが、予言機械がもたらす未来に対して肯定と否定に繋がり、結果的に人間と水棲人間の対立軸にも関わってきて、読者は作者に仕掛けられた序曲からブループリントまでの音楽的用語を用いた構成を通り過ぎる。

さて、ここまで書いてきたけれど、はっきりいって僕はこの作品について、まだ咀嚼していない部分がある。

 最も重要なのは、実は単純なことでこの作品は現代の読者が、誰しも感想として読んで面白いと感じることかもしれない。どんな小難しいことよりも、日本で初めての長編SF作品とされる小説の骨格がSFが浸透しきった現代において、いまだに耐久力を維持しているのは、驚くべきことだとあえて言っておきたい。

 

 

 ※補遺

 「第四間氷期」のタイトルが、まるで第五氷期の訪れを表しているかのように見えるという問題について、個人的にずっと気になり、何か関連する考察はないか探した結果、興味深い考察を見つけたので書き加えておきたい。

それは1976年3月号のユリイカ「特集 安部公房 故郷喪失の文学」の146P、「BY・Wayー「第四間氷期」についてー」草下英明さんの寄稿である。

 結論から言えば、作中で示された第四間氷期のあとには、氷期は訪れないと示されている。

どんな内容であるか以下に引用するので、ひとつの参考になれば幸いである。

 

―中略、今後地球は一体どうなるのか。ウルム氷期は一応終わりを告げて約二万年近くがたっている。第四間氷期は未だ当分のあいだ続くのであろうか。それとも間もなく第五回目の氷期は訪れるのだろうか。これは誠に興味あるテーマだが、「第四間氷期」ではそれがもう来ないであろうことを示唆している。地球の海水面は猛烈な海底火山の活動による水蒸気の放出によって増量し、60メートルも上昇してしまうというのが作者の予測―いや、コンピューターのモスクワ3号だかの予想であった。

 これも実は2通りの考え方がある。地球はもうすでに冷えつつある。その証拠は異常気象の面にいくらでも現われていると主張する人がいる。ヨーロッパ地方に非常な寒冷がしばしば襲って、夏季寒冷化が進んでおり、スピッツベルゲン島周辺が氷に閉ざされ、白熊が北氷洋やグリーンランドのあたりからのそのそ歩いてくるといった現象が見られる。つまり次の氷期か小氷期が目前に迫ってきているような意見を持つ人もある。

 全く正反対に、もはや地球上に氷期はやって来ないとほとんど断言する人もある。その危険は、即ち動物の呼吸作用や公害の結果、炭酸ガスやチリ、埃が地球大気の中に外套のような膜を作り、太陽からの熱を温室効果によって蓄熱することにあるという。つまり温室と同じ様に地球の大気を暖めている太陽熱をそのまま地表近くに貯めこんで外部に放出しない働きによって、地球全体は急速に暖まりつつある。この傾向は、人類のあらゆる生産活動が行われる限りは戻ることはないと考えられる。

 

―(略)、(ギュンツ、ミンデル間氷期にはまさしく海水面が現在より60メートル高かったという証拠がある。)私としては、どうも寒くなるより、暑くなる方が可能性が高いと思っているが…。

 

 「第四間氷期」という作品は、SF作品の出版社として有名な早川書房のSF専門誌「SFマガジン」の創刊年の前年(1959年)に書かれたもので、日本の戦後のSF作品として先駆的であったことは事実だろう。「第四間氷期」に影響したと思われる事柄として、この寄稿には1952年9月から1953年9月にわたって小笠原列島南方洋上で明神磯という海底火山の活動があったとしている。(1952年9月17日、第五海洋丸という海上保安庁の調査船が、直下爆発によって消滅している。)

 加えて、安部公房チェコスロバキアなどの東欧諸国を訪れたり、1957年10月4日

の世界最初の人工衛星スプートニクソビエトによって実行されたこともあり、東欧やソビエト優位の影響を受けた作品であると示唆されている。

 

 

第四間氷期 (新潮文庫)

第四間氷期 (新潮文庫)

 

 

 

 

 《人間そっくり》

 

 「人間そっくり」は、ラジオドラマの脚本家の家に訪ねてきた、火星人と名乗る男との会話劇を繰り返していくうちに、"人間そっくり”な火星人の話術に翻弄されて、次第に虚言を弄する男が狂人であるのか、はたまた本当の火星人であるのかわからなくなっていくという物語だ。

 この話のSF要素があるかといえば個人的に疑問符が付くけれども、未知の生命体である火星人をめぐって、本来明らかであるはずの常識が認識の曖昧さを以て崩されていく

ことをテーマにしている。

 この作品の最大の特徴は、ほぼ話の中心が主人公と自称火星人の男という2人で成り立っていることにあり、読者自身が次第にどちらが主人公(人間)でどちらが自称火星人の男なのか分からなくなるような錯覚を覚えるところにある。

 

 

人間そっくり (新潮文庫)

人間そっくり (新潮文庫)

 

 

 

 

 

《R62号の発明・永久運動》

 

 僕はこの作品について、昔ネット上でアップされていたラジオドラマ版を視聴していた。なので、ラジオドラマ版のイメージを追従して小説を読んでいる感覚が強い印象があって、小説版との違いは何かというようなものは分からなく、セリフもラジオドラマの声優がアテレコしているような錯覚があった。

「R62 の発明」は、主人公が人間からただのロボットに手術によって作り変えられてしまうことで、機械の効率性を重視するあまり、コストの低い人間が大量生産の象徴である機械に倫理観を度外視して、合理的に使われてしまう皮肉が含まれた恐ろしい物語で、チャップリンの「モダン・タイムス」に似ているけれども、「モダン・タイムス」は、脳みそを弄られて完全に機械と化した主人公ではない。

 

 同じように人間が機械に作り変えられた人間を扱った作品で、「永久運動」がある。これは、発明家の助手が試験体になり、あらゆる質問に回答できる万能で完全に自立した機械として生まれ変わり、記念イベントのような会場に現れた参加者を次第に操っていくという物語だ。

「所有者は所有に所有される」という、主従関係の逆転のようなセリフが印象的だった。実は、この作品は演劇作品であり、小説ではない。

ト書きという、作者が上演に際して用いる舞台設定には、「劇場そのものが舞台である」という提示があり、観客と役者を隔てる境界とされる第四の壁を崩そうとする演劇的な試みがあることも重要である。

 ちなみに、僕はこの作品を上演したものを鑑賞したことがある。

感想としては、発明品が実際にどのような姿かをはっきりと目にすることができたし、視覚化された演劇作品を楽しめた。けれども、やっぱり観客と役者の壁は断絶されていて、容易に崩せるようなものではないし、観客は役者を鑑賞する絶対的な存在なのだという教育が、施されているように感じた。

そういう、小説とラジオ・演劇との違いを確かめてみるには、良い作品なんじゃないかと思うので、僕はラジオドラマ版の「R62号の発明」をおすすめしたい。

 

R62号の発明―[録音資料] [新潮カセットブック] (新潮カセットブック A- 1-1)
 

 

 

 

 

《闖入者・詩人の生涯・完全映画・鉛の卵》

 

 正直な話、今回この本を通して初めて読み、面白いと思ったのはこの4作品だった。

どれも、共通しているのは不条理に陥った人間を描いているところかもしれない。

 

 「闖入者」は、1950年に書かれた小説で、突然押しかけてきた数人の家族たちが主人公の家を占領し、民主主義的な多数決によって、主人公の反対を押しのけて一人の人間の自由を征服してしまう話だ。

 

「詩人の生涯」は、1956年に書かれた戯曲で、老婆が糸に変化し一つのジャケットに作り変えられてしまうところから始まり、氷河期のような天候の変化にほとんどの人々が凍りついてしまうが、老婆だったジャケットが凍ってしまった彼女の息子に羽織られたとき、少年は甦って雪の結晶から聞こえてくる声を書き留めていき、凍ってしまった世界が次第に融解していって、人々はまた元通りの世界を取り戻す。書き終えた少年はノートに吸い込められて消失してしまう。

 ちなみに人間から糸になるモチーフは、この作品に収められた1950年発表の短編「赤い繭」と同じだ。解説をみると、敗戦直後の飢えと寒さへの絶望的な感覚が現れているらしいが、非常に寓話的に作られていて、灰色の荒廃したイメージはあるけれども戦争の悲惨さを安直に描いていないのが素晴らしいと思う。

 

同じように索漠とした印象を受ける作品として、「魔法のチョーク」がある。

この作品は、一人の貧しい画家が偶然手にした、描いたものを何でも実物に変えてしまうチョークによって孤独を満たそうとする話。

「魔法のチョーク」は、結構前に読んだことがあり、個人的には安部公房作品の中でもお気に入りの物語である。この作品が好きな一番の理由は、境遇が似ていて同一視しやすいからだと思う。

 

「完全映画」は、1960年に書かれた小説。

SFと推理小説の二つの要素があるという作者のプロローグに始まり、前半をSF、後半を種明かしのように展開する推理小説として展開している物語構造を取っている。

現代の3Dをさらに進化させたような、脳に直接体験させる技術を使って、怪獣なら怪獣にそのまま人間の内面を変えてしまう娯楽を発明したという恐ろしい話。

「鉛の卵」は、1957年に書かれた小説で、解説いわく「第四間氷期」よりも前に書かれた本格的なSF中編小説らしい。

タイムカプセルのような鉛の卵に入った人間が、80万年後の異形な進化を遂げた人間との交流を描いており、ユートピア的な未来ではなく衝撃的な未来社会が形成されてしまった「猿の惑星」のような印象を受け、世界に一人取り残された現代人のような感覚を覚える面白い小説だ。

 

 

《感想》

ここまで紹介してきて、疲れてきた。(笑)

とりあえずSF全集2巻目を読破して、ようやく60~70年代の日本SFの勃興のようなものの外観が見えてきた感じがする。

モノが豊かになると、あるはずのない世界や発明品に対する憧れが強くなるのだろうか。

でも、SFにはその当時の風刺やモチーフが隠されていることがあり、解釈の幅を自分で見つけてみるのも面白い知的体験になるのかと思う。

現に僕は今回の本で、新たに好きになった作品があったし良い収穫になった。

 ちなみに、いまやネットで普及している読書会には、安部公房読書会というのもあるので、興味がある方はそうしたコミュニティから始めて、作品に触れてみるというのも、面白いかもしれない。

 全集を読んでここに書いてみて、やっぱり僕は安部公房が好きなんだなと改めて思った。

また彼の作品の特徴として、終盤で登場人物が涙を流したり(「魔法のチョーク」・「第四間氷期」)、唇が震えたり(「R62号の発明」)といった、

内面を表したような表情の機微を描写したり、抒情的な描写で締めくくられることが新たに発見できた。

 

 そんなこんな好きな作家の一人を書いて満足したところで、次のSF作品に移りたいと思う。

世界SF全集 第28巻「星新一」

世界SF全集読破の記念すべき第一巻目は、原稿用紙10枚に満たない小説(ショートショート)を生み出した作家、星新一にした。

 

恥ずかしい話だけれど、僕は星新一という作家について全く知らなかった、2011年当時彼はまだ存命している作家だと思い込んでいた。

浪人時代の2011年ごろ、小説を読むことに耽り、よく予備校帰りに書店へ寄っていた。その書店は品揃えが悪く、よく新潮文庫重松清という作家の隣に置かれることが多かった。また星新一の豊富な作品群がずらっと並んでいるのを見て、売れっ子作家の一人なのかなと勝手に思い込んでいたのだ。

当時、僕は太宰治城山三郎安部公房吉村昭などの新潮文庫を中心に乱読していたけれど、星新一の文庫には手が伸びなかった。それは、タイトルがどれもこれも子供の絵本のような単純で幼稚そうで中身がなさそうだと、読んでもないのに勝手な偏見を抱いていたからだ。

 それは今にして思えば、読まなかったことで彼の作品を新鮮な気持ちで読める喜びがあるから読まなくて正解だったと思うし、予備校に通ってまで大学受験をしようとしている人間は、そんな精神的な余裕はないとも思う。

 

星新一という作家がどんな生涯を送ったのか、動画がYouTubeにある。(以下)

www.youtube.com

 

超短編を作り続けた作家というが、その数はなんと1001編に及ぶという

今回この全集に収録された100編でだいたい460ページなので、すべておさめた場合は単純計算で4600ページ(!)ということになる。

 

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(世界SF全集の実物。これがあと9冊分で1001編。)

 

僕は、この動画を見てから彼の「おーい、でてこーい」を読んで衝撃を受けた。

短いながらも、一度読んだらずっと忘れられないような話。

それは、寓話的で不思議な話であり、僕らの世代では「世にも奇妙な物語」のようで話に引き込まれる魅力があった。

 

 話を戻して、なぜ今回の全集読破で最初に選んだかといえば、とっつきやすいし短いからだ。例えるなら、胃もたれのするメインディッシュの前の、前菜を食べ始めたようなものに似ていると思う。

 ちなみに、このSF全集には全集の特徴である月報も付いており、2007年には月報のみをまとめた本も出版された。

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(寄稿は福島正実・ 都筑道夫真鍋博。)

 

 さて、この本に収められた100編すべての感想を書く力はないので、個人的に気に入った作品を箇条書きで取り上げたい。

 

≪おーい、でてこーい≫

ゴミ処理を題材に、人間の因果応報を描いた有名な作品。星新一といえば、この話を思い出す人は多いと思う。 

 

≪情熱≫

巨大な宇宙船を作り、宇宙旅行を計画した地球人。だが別の惑星から苦労して来た、

宇宙船の人々の話を聞いて未知の宇宙への情熱が変わっていく。

 

≪コビト≫

 サーカスでみじめに働かされる、小さいコビト。その哀れな姿に人々は同情し、法廷でコビトの人権が保障される。それを合図に、地下に潜んでいた大勢のコビト族が出てきて…

 

≪幸運への作戦≫

幸運開発計画研究所で、幸運をまねきよせるネコを買う独身の男。ネコの力を頼りに、ある女と結婚するが、実は彼女の方も幸運占領計画研究所から犬を買っていた。

 

≪善意の集積≫

短編漫画化もされた作品。生まれつき失明している少女が、化け物のようなポブ星人にやさしく接する。やがて、ポブ星人に連れられて惑星に行き目を治してもらう。初めて目にしたポブ星人たちと自分の姿の違いに恥ずかしくなり、少女は体も整形してもらい、地球に戻される…

 

≪テレビシート加工≫

紙よりも薄いテレビシートで、現実拡張のように家じゅうがさまざまな風景で彩られた未来。人々の生活に普及し、エヌ氏もその生活に満足していた。だがある日、車のテレビシートが古くなり規則違反でただのコンクリート部屋に留置される。

 

≪あすは休日≫

2027年、今日もエヌ氏はせわしなく機械の声に起こされて出勤する。出勤から帰宅してベッドに入ったとき、これが朝ベッドで飲んだ薬の副作用だと気づく。

実は、すべての仕事がオートメイション化し、人間は働く必要がほとんどなくなった。

この薬は、何かをせずにいられない人間の勤労感を満たす薬なのだ。

エヌ氏は、明日の休日をどう過ごすか考えてうれしそうな表情になる。

 

 

≪感想≫

 読み終えた感想としては、流石に100編もの短編を連続して読み続けるのは、さすがに胃もたれが起きそうになった。

 でも、そんな中で印象に残る作品は確実にあったし、現代でも通用する風刺を短編に含んでいるというのが、星新一という作家の凄さであり、SF作品・ショートショートの醍醐味なんだろう。SF作品のさわりに、ショートショートは道案内役としての役割を果たしていると言っていい。

 小説を読むのが退屈、苦手だと感じる人には、まず星新一から入ってみるといいかもしれない。といっても、僕が薦めるまでもなく今日において、彼の作品は多くの読者に読まれ、これからも愛されるのだが…。

 

 

世界SF全集、という文字の海

≪世界SF全集との遭遇≫

僕が世界SF全集という存在を知ったのは、岡田斗司夫の書棚を見たときだった。

予備校時代にアニメの批評にハマり、ネット上で彼のコンテンツをよく視聴していた。

その中で彼の書斎に整然と並ぶ、いかにも風格のある本の群れがあり、いつか自分も本棚に同じものを並べてみたいと思った。

彼が世界SF全集を本棚に並べている理由としては、

「見た目がカッコいいから」

というのと

「SFが好きだから」

というごくごく単純な理由で呆れたのと同時に、憧れた。

 

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(右側の本棚にSF全集が並んでいる。これをみて、本の内容がすごく気になった。)

 

今となっては、氏に対する眼差しが全く違うものになったけれど、彼がこの本を教えてくれたことに変わりはない。

大学に合格してから、念願の世界SF全集は無事ヤフオクで全巻揃えられた。

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(並べてみるとまさに圧巻。全35冊で20,000円。高、…安いッ!)

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(背の部分。この双曲線かメビウスの帯を切り取ったかのような数学的デザインが好きです。)

 

ただ、集めたのはいいけれど、肝心の読書はまったく進行していない。

なのでこのブログを通して全巻読むのがひとまずの目標になっている。

この果てしない文字の海を泳ぎ切ったとき、僕はどうなっているだろう。

途中で止めないといいけど。(フラグ)

 

≪刊行年の主な出来事≫

ちなみにこの世界SF全集が刊行された年は、1968~1971年である。

世界史的には、東西冷戦が一時緊張緩和状態になった年代だ。

この“68~71年”というのが調べてみると、なかなか大ニュースが目白押しの年代で、

 1968年は、川端康成ノーベル文学賞を受賞したり、東大紛争、3億円事件が起きた。洋画では「2001年宇宙の旅」や「猿の惑星」が大ヒットした。また週刊少年ジャンプが創刊した年でもある。

 続く1969年といえば、アポロ11号が人類初の月着陸を果たした年で、サザエさんが放映開始されたりもした。

 1970年は、いわゆる大阪万博が開催され、三島由紀夫が割腹自殺した。

 1971年はというと、NHKでカラー放送が始まり、「仮面ライダー」が放映された。

また当時の佐藤栄作首相が現首相として初めて広島平和式典に出席した。

 

ちなみに翌年の1972年にはあさま山荘事件沖縄返還があるという、戦後日本の中でも目まぐるしい出来事が起きたような年代の一つであり、高度経済成長の中期に当たる。

また、1964年の東京オリンピック以後のカラーテレビの普及など、大衆の生活が移り変わりとともに安定しだした年で、地球外・未来の想像世界を取り上げたSFというジャンルが浸透・拡散の第一歩を踏み始めたのは、そうした目には見えないものや、決して手に入れられないもの、絶対に辿りつけない次元や世界を憧憬するためのフィクションとして必然的な文学の隆盛だったのかもしれない。