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紙枕の中にある

本とエッセイ

世界SF全集 第27巻「安部公房」

 

 

安部公房とは?≫

 今回の全集について取りあげる前に、まず安部公房という作家の人物像をおおまかに書いておきたい。

 

  安部公房(あべ こうぼう)

作家・戯曲家・演出家。1924年(大正13年)生まれ。1993年(平成5年)没。

東京都出身、少年時代は満州(現中国東北部瀋陽市)で過ごす。高校時代からリルケハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、30ヶ国以上で翻訳出版されている。

主要作品は、小説に『壁-S・カルマ氏の犯罪』(同名短編集の第一部。この短編で芥川賞を受賞)、『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』など。

戯曲に『友達』『榎本武揚』などがある。劇団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞候補と目された。(Wikipediaより引用)

 

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 個人的に安部公房という作家は、特別な思いのある作家の一人である。僕が安部公房という作家の存在を知ったのは、正確には覚えていないけど17歳の頃だったと思う。

 当時僕は、学校に通うのがとても苦痛に感じ、そのせいで高校を半年で中退していた。その後、半年間は全く家から出ずに引きこもって、将来を描けない嫌な現実から逃避するために、ゲームをしたり家にある小説や親に頼んで借りてきた本などを内容も分からないまま、とにかく色んな作家を読んでいたりしてた。

 その思春期が極度に歪曲した人間不信状態のなかで唯一、小説を読む悦びを教えてくれたのが太宰治だった。

 しかしながら、彼の小説は一般に知られているように、ニヒリズム的で漫画のように戯画的な悲哀と可笑しさがあるけれども、最終的に彼は自殺してしまうという暗さがあり、作品に楽しさはあっても読者に未来を生き抜く提示はしなかった。

   その懊悩とした思春期の乱読時代に、変革をもたらしたのが安部公房なのである。

 どういう経緯かは覚えていないけど、本より先にYouTube上で何気なく検索した開高健の動画のリンクから、安部公房の肉声が残された動画に辿りついたんだと思う。

 その動画がこれ。(以下)

www.youtube.com

 

 これを見て、明治・大正期の作家像ばかりで止まっていた僕にとっては、映像の中で動いて、科学的な知識を持って学者と議論している文士という、初めての目にする理系的な作家という衝撃的な印象を持つ存在だった

 ただ、理系出身の作家を知らないわけではなく、森鴎外北杜夫などは知ってはいた。でも、実際に分子生物学という分野について具体的に話す姿が動画に残っているというのが衝撃的だった

 研究者と作家がこのように対談している動画がネット上に残されているのは珍しく、視野の狭かった僕には、未知の思考が展開されているような魅力があった。

 そこからリンクして、安部公房の生涯と文学観を手短にまとめた動画があって、続けて見た。

 

 

 この2つの動画を見て何に関心を抱いたかというと、あくまでも今を見るという現在の時間的連続性から文学を考える視点と、グーグルマップ的な地図のディテールについての話し、そして何より、二元論に陥りやすい物事を両義性を以て俯瞰するという思想を展開している所が10代の自分にとって新鮮だったことだ。また、文学というジャンルのみならず、演劇や映画などのメディアに展開している点も、作家が社会的にどんな役割を持っているかについて考える起点にもなった。

 

 それに加えて、偶然にも母方の祖父と同い年(大正13年)生まれで、海軍として満州に赴いた祖父との時代に対する受け止め方の比較と、僕が生まれてからちょうど半年後に安部公房が亡くなっているという事もあって、彼の作品ついて興味が深まった。

 それ以降、浪人中に「安部公房伝」や未発表の短編「天使」の掲載、そして「安部公房とわたし」などが偶然にも刊行されたり、僕は引きこもりを止めて大学進学して安部公房に感化されて演劇をしようとした結果、挫折した話もあるが、それはまた別の話だ。

 

で、現段階で僕自身の思う安部公房の特徴を簡単にまとめると以下のようになる。

 

 

初期:詩人。

   満州での故郷喪失の寂寞感。

    砂や植物に人間の寂寞感を例えた、“観念的”な文学。

 

中期:文壇デビュー。『壁ーS・カルマ氏の犯罪』で芥川賞受賞。

初期の文学観を継承し、さらに昇華した人間関係の境界を寓話的に表現した。

   三島由紀夫などの作家と対照的な立ち位置を示す。

    勅使河原監督による映画化。

 

後期:小説→演劇へ。

   精力的に劇団の創作に関わるあまり、小説家としての活動は低迷。 

 

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 さて、安部公房の生涯などについて大雑把ながら踏まえたところで、今回のSF全集について紹介したい。

 

今回取り上げた、早川書房の世界SF全集第27巻(1971年刊行)に収められた作品は以下のものである。

 

・第四間氷期

・人間そっくり

・R62号の発明

・赤い繭

・闖入者

・人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち

・永久運動

・魔法のチョーク

・デンドロカカリヤ

・ 詩人の生涯

・完全映画(トータルスコープ)

・盲腸

・鉛の卵 

 以上 13作品。

 

 

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月報と函。

寄稿は、日下実男「安部氏と氷河期」、高野斗志美「《変形人間》雑感」、石森章太郎安部公房さんのことも入ってます」 の3つ。ちなみに、この本の解説を担当したのは、奥野建男である。

 

 

《世界SF全集の時代背景》

 時代背景を考えると、この世界SF全集が初めて刊行された1968年には、川端康成ノーベル文学賞を受賞し、1969年には人類初の月面着陸があった。そして、この本が刊行される前年(1970年)には、大阪万博三島由紀夫の割腹自決事件があった。

 文壇にとって海外からも評価の高かった、第二次戦後派の代表格の一人である三島由紀夫が亡くなってしまったことは、大きな損失であっただろう。

このような文壇にとっての大事件が起きた翌年に、この本が刊行されたことを考えると、出版社側としては、もう一人の第二次戦後派の象徴として存在する安部公房という作家を、SFという新たなジャンルの浸透とともに、権威付けるための目的があったであろう。

 とはいっても、 全集にまとめられるにはそれ以前に書かれた作品がなければいけないので、安部公房が日本国内における戦後SFジャンルの黎明期に発表していたことは、純粋に評価されるべきことだろう。 

 では、具体的にこの全集の作品に触れていくことにする。

 

 

《第四間氷期

 解説においても月報においても注力して評されているのが、「第四間氷期」という長編小説である。

 第四間氷期は、海底火山の噴火の描写、横浜に向かう一隻の貨客船、そして720キロの速度で大津波がやって来るという、人類の破滅的な予兆が描かれた「序曲」から始まり、「プログラムカードNo.1],「プログラムカードNo.2」、「間奏曲」、「ブループリント」の5つの構成になっている。

 物語は、現代のいわゆるスーパーコンピュータが一種の予言機械として登場し、ソ連で開発されたのを皮切りに、日本では主人公の勝見博士が予言機械を作り出す。

 しかしどんな質問をしても、結果的に政治的な予言に関わるというバグが生じ、事象の予言ではなく個人の未来を予言するという手段によって、観測を試みる。その中で不特定対象だった人間が、予言機械にかける前にある人物によって殺され、死体を予言機械にかけて試験者がどのように殺されたのかを見るという、推理小説的な要素が入ってくる。

 その過程で、次第に意外な事実が現れ人工中絶の胎児を買い取る組織や、恐るべき未来のために水棲でも生きるように改良された人間を作ろうとする思惑が明らかになってくる。

 やがて、未来と現在の主人公が予言による未来を巡って対立し、結果的に地球が第四間氷期を迎え、陸地のほとんどが海中に沈んでしまう。“現在”の勝見博士は、“未来”の勝見博士を否定した現実を受け止める。

 場面が変わって物語の最後では、水棲人間の少年がかつての陸地に憧れて、風を感じるために海中から上り、涙線という感覚器官を取戻し息絶えてしまう。

 

 物語に示されている問題意識をあえて書くならば、人間の故郷は海であるか、土であるのかという生態の帰属意識から始まり、SFでよく使われるタイム・パラドックスの矛盾に基づいた、未来の自分によって今の自分が操られてしまうことへの反逆を描いていることだ。

 また、物語内で人間たちが水棲人間の数を増やすために、多くの女性たちが賃金と引き換えに協力している場面などもあり、環境変化にともない相互関係の優位性が逆転していく部分もあり、家畜だと思っていた水棲人間が今度は人間を支配していくという、生態系のラディカルなテーマは、痛快に人間社会を批判している。

 

   余談だが、第四間氷期に関する考察をネットで調べてみると、幾人かの人々がブログなどでそれぞれの考察をしていたので。勝手ながら作品の参考になると思い、いちファンとしてこの作品を読んだ人に向けて紹介しておきたい。

 

・予言=権力 ‐安部公房『第四間氷期』論 中野和典

https://www.cis.fukuoka-u.ac.jp/~nakanok/study/yogen.pdf#search='%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E9%96%93%E6%B0%B7%E6%9C%9F'

 

安部公房『第四間氷期』を読む kojitakenの日記

d.hatena.ne.jp

 

・『第四間氷期』と『1984年』を結ぶ糸  安部公房解読公房blog

w1allen.seesaa.net

 

 

 

 それぞれの考察が、『第四間氷期』を初めて読んだ僕には新鮮な考察に思えた。

文学比較や意味について追及している読み方は僕にはなく、初読の段階ではあくまでも物語を追うことに集中していたので、あとでこうした他者の考察を読むのも、読者同士の視点の違いが交錯していて面白いと思う。

 では、肝心の僕個人の感想はどうだったのかを書くために、まずはこの本の解説を手掛けた奥野建男が『第四間氷期』について書いた文章を引用しておきたい。

 

「 『第四間氷期』は本格的な長編SFであるが、作者はSFを書こうとして、この作品を書いたのではない。転換期の現代の状況と対決して行こうとする作者の内的モチーフが、必然的にSFという形式を取らせたといえる。

 つまり現代の本質を捉えるためには、従来の平面的、微視的、日常的見方からでは十分でなく、未来という視点を設定し、そこから逆に現代の本質をあらわにさせるという発想が必要だと作者は考えたのである。

(中略)…作者は現在の状況の中に、潜在している未来を見出し、その未来を人々の前に突き付けることによって、現代における人間の責任を描いているのだ。読んでいると、勝見博士とともに、絶えず未来から現在の態度決定を責められ、拷問を受けているような息苦しさをおぼえる。そこにおいては安直なヒューマニズムは徹底的に打ち破られる。

 未来にかけるべきか、現在の人間性を守るべきか、はたしてどちらが人間の正しい生き方か、読んでいてわからなくなる。

 

(中略)…「あとがき」で書いているように、未来を現在の考えで判断することは殆ど不可能なのだ。」

 

 僕が『第四間氷期』において考えたのは、安部公房が「あとがき」に書いたように、日常のささいな連続感に埋没している自分達が、未来という残酷なものを良くも悪くも受け止めることが約束されているという事と、水棲人間である少年が流すはずのない涙を流したのはなぜなのか、また人間と音楽の関わりについての事だ。

 物語の主軸となっているのは、やはり主人公が未来と現在に分割された状態が、人類が居住する文明社会の破滅と関わっている点にある。タイトルにあるような地球環境の変化は、あくまでも補助的な役割として物語に機能しているに過ぎず、重要視すべきなのは、人間が作ってしまった水棲人間によって文明が完全に破綻したことだろう

 そして忘れてはならない事柄として、人間は音楽を聴きながらでも殺人を行うことができるという話との関連は何か考えてみると、「プログラムシートNo.1」での一場面で印象的な、勝見博士と助手の頼木が予言機械にかける実験体を尾行するところで(チャプター7)、ごく短い場面だがのちに判明する博士と助手の思惑との相違を予感させるところではないかと思われる。

 どちらも人間ではあるが、予言機械がもたらす未来に対して肯定と否定に繋がり、結果的に人間と水棲人間の対立軸にも関わってきて、読者は作者に仕掛けられた序曲からブループリントまでの音楽的用語を用いた構成を通り過ぎる。

さて、ここまで書いてきたけれど、はっきりいって僕はこの作品について、まだ咀嚼していない部分がある。

 最も重要なのは、実は単純なことでこの作品は現代の読者が、誰しも感想として読んで面白いと感じることかもしれない。どんな小難しいことよりも、日本で初めての長編SF作品とされる小説の骨格がSFが浸透しきった現代において、いまだに耐久力を維持しているのは、驚くべきことだとあえて言っておきたい。

 

 

 ※補遺

 「第四間氷期」のタイトルが、まるで第五氷期の訪れを表しているかのように見えるという問題について、個人的にずっと気になり、何か関連する考察はないか探した結果、興味深い考察を見つけたので書き加えておきたい。

それは1976年3月号のユリイカ「特集 安部公房 故郷喪失の文学」の146P、「BY・Wayー「第四間氷期」についてー」草下英明さんの寄稿である。

 結論から言えば、作中で示された第四間氷期のあとには、氷期は訪れないと示されている。

どんな内容であるか以下に引用するので、ひとつの参考になれば幸いである。

 

―中略、今後地球は一体どうなるのか。ウルム氷期は一応終わりを告げて約二万年近くがたっている。第四間氷期は未だ当分のあいだ続くのであろうか。それとも間もなく第五回目の氷期は訪れるのだろうか。これは誠に興味あるテーマだが、「第四間氷期」ではそれがもう来ないであろうことを示唆している。地球の海水面は猛烈な海底火山の活動による水蒸気の放出によって増量し、60メートルも上昇してしまうというのが作者の予測―いや、コンピューターのモスクワ3号だかの予想であった。

 これも実は2通りの考え方がある。地球はもうすでに冷えつつある。その証拠は異常気象の面にいくらでも現われていると主張する人がいる。ヨーロッパ地方に非常な寒冷がしばしば襲って、夏季寒冷化が進んでおり、スピッツベルゲン島周辺が氷に閉ざされ、白熊が北氷洋やグリーンランドのあたりからのそのそ歩いてくるといった現象が見られる。つまり次の氷期か小氷期が目前に迫ってきているような意見を持つ人もある。

 全く正反対に、もはや地球上に氷期はやって来ないとほとんど断言する人もある。その危険は、即ち動物の呼吸作用や公害の結果、炭酸ガスやチリ、埃が地球大気の中に外套のような膜を作り、太陽からの熱を温室効果によって蓄熱することにあるという。つまり温室と同じ様に地球の大気を暖めている太陽熱をそのまま地表近くに貯めこんで外部に放出しない働きによって、地球全体は急速に暖まりつつある。この傾向は、人類のあらゆる生産活動が行われる限りは戻ることはないと考えられる。

 

―(略)、(ギュンツ、ミンデル間氷期にはまさしく海水面が現在より60メートル高かったという証拠がある。)私としては、どうも寒くなるより、暑くなる方が可能性が高いと思っているが…。

 

 「第四間氷期」という作品は、SF作品の出版社として有名な早川書房のSF専門誌「SFマガジン」の創刊年の前年(1959年)に書かれたもので、日本の戦後のSF作品として先駆的であったことは事実だろう。「第四間氷期」に影響したと思われる事柄として、この寄稿には1952年9月から1953年9月にわたって小笠原列島南方洋上で明神磯という海底火山の活動があったとしている。(1952年9月17日、第五海洋丸という海上保安庁の調査船が、直下爆発によって消滅している。)

 加えて、安部公房チェコスロバキアなどの東欧諸国を訪れたり、1957年10月4日

の世界最初の人工衛星スプートニクソビエトによって実行されたこともあり、東欧やソビエト優位の影響を受けた作品であると示唆されている。

 

 

第四間氷期 (新潮文庫)

第四間氷期 (新潮文庫)

 

 

 

 

 《人間そっくり》

 

 「人間そっくり」は、ラジオドラマの脚本家の家に訪ねてきた、火星人と名乗る男との会話劇を繰り返していくうちに、"人間そっくり”な火星人の話術に翻弄されて、次第に虚言を弄する男が狂人であるのか、はたまた本当の火星人であるのかわからなくなっていくという物語だ。

 この話のSF要素があるかといえば個人的に疑問符が付くけれども、未知の生命体である火星人をめぐって、本来明らかであるはずの常識が認識の曖昧さを以て崩されていく

ことをテーマにしている。

 この作品の最大の特徴は、ほぼ話の中心が主人公と自称火星人の男という2人で成り立っていることにあり、読者自身が次第にどちらが主人公(人間)でどちらが自称火星人の男なのか分からなくなるような錯覚を覚えるところにある。

 

 

人間そっくり (新潮文庫)

人間そっくり (新潮文庫)

 

 

 

 

 

《R62号の発明・永久運動》

 

 僕はこの作品について、昔ネット上でアップされていたラジオドラマ版を視聴していた。なので、ラジオドラマ版のイメージを追従して小説を読んでいる感覚が強い印象があって、小説版との違いは何かというようなものは分からなく、セリフもラジオドラマの声優がアテレコしているような錯覚があった。

「R62 の発明」は、主人公が人間からただのロボットに手術によって作り変えられてしまうことで、機械の効率性を重視するあまり、コストの低い人間が大量生産の象徴である機械に倫理観を度外視して、合理的に使われてしまう皮肉が含まれた恐ろしい物語で、チャップリンの「モダン・タイムス」に似ているけれども、「モダン・タイムス」は、脳みそを弄られて完全に機械と化した主人公ではない。

 

 同じように人間が機械に作り変えられた人間を扱った作品で、「永久運動」がある。これは、発明家の助手が試験体になり、あらゆる質問に回答できる万能で完全に自立した機械として生まれ変わり、記念イベントのような会場に現れた参加者を次第に操っていくという物語だ。

「所有者は所有に所有される」という、主従関係の逆転のようなセリフが印象的だった。実は、この作品は演劇作品であり、小説ではない。

ト書きという、作者が上演に際して用いる舞台設定には、「劇場そのものが舞台である」という提示があり、観客と役者を隔てる境界とされる第四の壁を崩そうとする演劇的な試みがあることも重要である。

 ちなみに、僕はこの作品を上演したものを鑑賞したことがある。

感想としては、発明品が実際にどのような姿かをはっきりと目にすることができたし、視覚化された演劇作品を楽しめた。けれども、やっぱり観客と役者の壁は断絶されていて、容易に崩せるようなものではないし、観客は役者を鑑賞する絶対的な存在なのだという教育が、施されているように感じた。

そういう、小説とラジオ・演劇との違いを確かめてみるには、良い作品なんじゃないかと思うので、僕はラジオドラマ版の「R62号の発明」をおすすめしたい。

 

R62号の発明―[録音資料] [新潮カセットブック] (新潮カセットブック A- 1-1)
 

 

 

 

 

《闖入者・詩人の生涯・完全映画・鉛の卵》

 

 正直な話、今回この本を通して初めて読み、面白いと思ったのはこの4作品だった。

どれも、共通しているのは不条理に陥った人間を描いているところかもしれない。

 

 「闖入者」は、1950年に書かれた小説で、突然押しかけてきた数人の家族たちが主人公の家を占領し、民主主義的な多数決によって、主人公の反対を押しのけて一人の人間の自由を征服してしまう話だ。

 

「詩人の生涯」は、1956年に書かれた戯曲で、老婆が糸に変化し一つのジャケットに作り変えられてしまうところから始まり、氷河期のような天候の変化にほとんどの人々が凍りついてしまうが、老婆だったジャケットが凍ってしまった彼女の息子に羽織られたとき、少年は甦って雪の結晶から聞こえてくる声を書き留めていき、凍ってしまった世界が次第に融解していって、人々はまた元通りの世界を取り戻す。書き終えた少年はノートに吸い込められて消失してしまう。

 ちなみに人間から糸になるモチーフは、この作品に収められた1950年発表の短編「赤い繭」と同じだ。解説をみると、敗戦直後の飢えと寒さへの絶望的な感覚が現れているらしいが、非常に寓話的に作られていて、灰色の荒廃したイメージはあるけれども戦争の悲惨さを安直に描いていないのが素晴らしいと思う。

 

同じように索漠とした印象を受ける作品として、「魔法のチョーク」がある。

この作品は、一人の貧しい画家が偶然手にした、描いたものを何でも実物に変えてしまうチョークによって孤独を満たそうとする話。

「魔法のチョーク」は、結構前に読んだことがあり、個人的には安部公房作品の中でもお気に入りの物語である。この作品が好きな一番の理由は、境遇が似ていて同一視しやすいからだと思う。

 

「完全映画」は、1960年に書かれた小説。

SFと推理小説の二つの要素があるという作者のプロローグに始まり、前半をSF、後半を種明かしのように展開する推理小説として展開している物語構造を取っている。

現代の3Dをさらに進化させたような、脳に直接体験させる技術を使って、怪獣なら怪獣にそのまま人間の内面を変えてしまう娯楽を発明したという恐ろしい話。

「鉛の卵」は、1957年に書かれた小説で、解説いわく「第四間氷期」よりも前に書かれた本格的なSF中編小説らしい。

タイムカプセルのような鉛の卵に入った人間が、80万年後の異形な進化を遂げた人間との交流を描いており、ユートピア的な未来ではなく衝撃的な未来社会が形成されてしまった「猿の惑星」のような印象を受け、世界に一人取り残された現代人のような感覚を覚える面白い小説だ。

 

 

《感想》

ここまで紹介してきて、疲れてきた。(笑)

とりあえずSF全集2巻目を読破して、ようやく60~70年代の日本SFの勃興のようなものの外観が見えてきた感じがする。

モノが豊かになると、あるはずのない世界や発明品に対する憧れが強くなるのだろうか。

でも、SFにはその当時の風刺やモチーフが隠されていることがあり、解釈の幅を自分で見つけてみるのも面白い知的体験になるのかと思う。

現に僕は今回の本で、新たに好きになった作品があったし良い収穫になった。

 ちなみに、いまやネットで普及している読書会には、安部公房読書会というのもあるので、興味がある方はそうしたコミュニティから始めて、作品に触れてみるというのも、面白いかもしれない。

 全集を読んでここに書いてみて、やっぱり僕は安部公房が好きなんだなと改めて思った。

また彼の作品の特徴として、終盤で登場人物が涙を流したり(「魔法のチョーク」・「第四間氷期」)、唇が震えたり(「R62号の発明」)といった、

内面を表したような表情の機微を描写したり、抒情的な描写で締めくくられることが新たに発見できた。

 

 そんなこんな好きな作家の一人を書いて満足したところで、次のSF作品に移りたいと思う。