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紙枕の中にある

本とエッセイ

世界SF全集 第29巻 「小松左京」

世界SF全集

 

小松左京とは誰か?】

 

f:id:realreference:20161106232455j:plain(著者と本棚。)

 

 世界のSF作家で「ビッグ・スリー」(アーサー・C・クラークアイザック・アシモフロバート・A・ハインライン)と呼ばれる人たちがいたように、日本のSF作家の草分け的存在として「御三家」と呼ばれる作家たちがいる。今回取り上げる小松左京という人は、その御三家のうちの一人で、筒井康隆星新一と並び、戦後日本のSFを牽引した作家として有名だ。この「御三家」と呼称される日本のSF作家たちの業績は、国内において広く読み親しまれたという意味で、今もなお多大な影響を与え続けているのは確かなことだろう。

 小松左京(1931~2011)は、単なるSF作家という職業だけにとどまらず、1970年の大阪万博ではサブ・プロデューサーとして活躍したり、関西の官僚や政治家のブレイン役としての役割を担ったり、テレビに出演したりとさまざまな媒体・ジャンル・メディアに手を広げ活躍をした人物らしい。彼のように旺盛な行動力と広い人脈を持っていたSF作家は、日本のSF界的にはなかなかおらず、21世紀の現代においても比肩されるような作家はほとんどいないとさえ言われている。

 いったいなぜ彼はSF作家という、マイナーな職業に就きながら広範な人脈と影響を与える存在になったのだろうか?小松左京という作家像はどんなものだったのだろうか?そして、このSF全集に収められた作品にはどのような意味があったのだろうか?それを知るためにはまず、彼の生まれた時代と彼が影響を受けたものについて知る必要がある。

 

【SF作家、小松左京の経歴】

 小松左京は1931年の大阪市西区で生まれ、幼いころは相撲や野球よりも、歌とマンガと映画に熱中した少年だった。小学校に入学した年に日中戦争が始まり、10歳の時には第二次世界大戦の開戦した日本を体験している。開戦当初の日本の空気について小松は、

 「やがて空襲が始まり、食料も欠乏して、世の中が暗く窮屈になるが、開戦のころは世間全体が威勢が良く、明るかった。軍事兵器の開発が進み、精密機械も急ピッチで進化しはじめて、日本はぐんぐん進歩しているんだ、と実感できて、何だかワクワクした。飛行機、ラジオ、自動車、鉄道……。科学の発展に目を見張る思いがしたものだった。」(『小松左京自伝 実存を求めて』P13より)

と、述懐している。少年時代には純粋に「日本は一等国なんだ」と信じて疑わず、生来ひょうきん者で、人を笑わせることに喜びを感じる旺盛な性格だったようだ。やがて終戦を迎え、14歳の小松左京が実感したのは、

 「心身に染みついていた恐怖感が薄紙をはぐようにゆっくり消えていった。だが、解放感も喜びもすぐにはわいてこず、気だるい虚脱感だけが残った。」(『小松左京 自伝 実存を求めて』P25より)

という抑圧から解放された虚無感だったようで、この時の「もしも、日本が終戦しなかったら…」という歴史のイフから、彼のSF作家的な想像力が生まれている。

 その後、京都大学でイタリア文学を専攻し、漫才の台本やラジオ放送の脚本、マンガの執筆などを経て、29歳の時に「地には平和を」(1961年)でSF作家としてデビューする。デビュー後は、『復活の日』や『日本沈没』などが代表作となり、のち角川映画で大々的に取り上げられるほどの作家になる。90年代になると、阪神淡路大震災の被災体験によるショックを受け、活動が低迷するがその後も「SF魂」や自伝を著したのち2011年に亡くなる。

 学生時代に影響を受けた作品は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やダンテの『神曲』、カフカの『変身』、日本文学では埴谷雄高の『死霊』、野間宏の『暗い絵』などで、他にもカミュの『ペスト』や『異邦人』、アンドレ・マルローやウィリアム・フォークナーなど海外のSF作品や安部公房にも心酔していたようだ。また、哲学の分野ではフッサールの『純粋現象学』を大学のノート三冊におよぶメモをとりながら読んだというエピソードなどがある。 

 

【作風と評価】

 彼の作風は壮大で、人類や生命の深淵や本質とはいったい何なのかという思弁的な、難しい主題をSFという手法によって扱っている。この哲学的な主題は、1960年代に流行っていた実存主義の影響によるところが強い。ジャン・ポール・サルトルに代表される実存主義は、「私はこの広い世界(もしくは宇宙)に存在することで、いったいどんな意味や関係性があるのか」を追い求める思想で、戦後の知識人たちはこの問題についてよく議論をした。小松左京の壮大な広さは、こうした世界の広さに対する、自分と言う生命体の行く末を想像した疑問から発生している。戦争の荒廃から復興へと進む時代を生きる人々は、焼け跡がビル街へと変貌してゆく時代の中で、虚無感と再興を同時に感じながら活動していた。彼の広い人脈と行動力は、実存主義的な想像力と並はずれた好奇心に拠るところがある。

 また小説にとどまらず、評論やエッセイ、紀行文なども大量に書いている。その旺盛な作家活動は、意外なことに当時の文壇での評価は決して高くはなかったようだ。それは当時の日本の文壇にとっては、SFの評価が「子供の読み物」として低く見られていたことが原因で、一般的にもSFという概念はあまりよく知られていなかったらしい。しかしその中でも、純文学系の作家で高く評価していた人物がおり、開高健北杜夫といった作家は小松左京とよく親しんでいたとされる。代表作『復活の日』が発表されたあと、東京オリンピックを境に普及し始めたカラーテレビの影響などもあって、SFが知られるようになると、彼の作家としての立場は確固としたものとなった。

 現代における小松左京の評価は、小説の文体表現としてはあまり上手くない。また、日本SF界を一人で牽引したことにより、功罪相半ばする部分もあるらしいが、基本的に作品の広大な世界観や文化論に影響を受けた人物は多く、今でも日本SF界においては伝説的な人物とされていることに変わりはないようだ。

 

 

【所収作品①:『継ぐのは誰か?』】

 今回の『世界SF全集第29巻 小松左京』には、『継ぐのは誰か?』と『果てしなき流れの果に』の2作品が収録されている。まずは前半の『継ぐのは誰か?』について書くことにしよう。

 『継ぐのは誰か?』は、1968年に『SFマガジン』で連載された長編小説で、1970年に世界SF全集で収録されたのち、1972年に単行本化された作品だ。この小説は、大学都市の中でおこる奇妙な殺人事件の犯人を探っていくうちに、人類よりも高度な生命体の存在が明らかになってきて、人類と新人類との衝突をめぐって人類の文明論を展開する物語だ。物語のペーストは、犯人探しのミステリー要素と大学院生たちの成長を描いた青春小説的な部分が組み合わさっており、舞台は近未来のヴァージニア大学都市から始まっている。 登場人物はかなり多く、モブキャラも含めると30人以上の人物が登場している。主人公は大学院生のヤマザキ・タツヤで、ヒロインにはフウ・リャンという中国系の大学院生がいる。物語の序盤では基本的に主人公を含めて11人の大学院生(チャーリイ、フウ・リャン、アドルフ・リヒター、クーヤ・ヘンウィック、ディミトロフ・ポドキン、ホアン・クリストバル・ディアス、チャールズ・モーティマー、サム・リンカーン、ヴィクトール、ミナ・コローディ)がいて、その傍らにIQが低いが感応能力が優れているジャコポという黒人の子供によって犯人探しが展開される。やがて殺人予告には、GCT(Global Crime Trust)という国際テロリストのような世界犯罪組織が関わっていることが分かり、ニューヨークに隠遁している賢者ヒンディ・ナハティガルや中盤以降では国際科学警察のICPOという組織に所属する人間や博士たちが介入し、舞台は南米へと移動する。 後半では、新人類の住む場所で人類は大きな選択を迫られる…。

 この作品を初めて読む場合は、人物の相関関係を微細に辿りながら物語のテーマを理解しようとするのではなく、キャラクターの行動をざっくり読みながら、この作品の大きなテーマはいったい何なのかを先に探った方が良いように思った。タイトルの『継ぐのは誰か?』は、地球上の生命体で文明を築き、頂点に君臨した人類のあとにどんな生き物がそれを継承し得るのかという疑問を投げかけている。人類の「種」の直系かあるいは傍系から、人間の文明を凌駕する新しい王者となる「亜種」はどこからやってきて、文明に終末を与えるのは誰なのか?『継ぐのは誰か?』は、そうした社会全体に危機を与える存在をシミュレーションしたSF小説となっている。

 またこの作品世界では、現代でいう人工知能のような機械が登場し、現代のグーグル検索のような存在として、本というものが電子脳ネットワークによって代替され、ほぼ消滅しかけている点も興味深い。この世界において、多くの優秀な学者や教授が登場するが、新人類の超能力には太刀打ちできないまま、殺人が遂行されてしまう。この電子脳という存在は、アカデミズムの到達した発明品として魅力的に見える反面、大学都市に居住する知的エリートたちがなす術もなく敗北してしまう無力感へと読者を導いている。登場人物の一人、ヤング教授は「科学は、人類の滅亡をすくうために、一肌ぬいだりしませんよ」と言い、作者はこの部分に関して、サルトルの「認識論的実存主義」に対する「科学的実存主義」を考えたとしている。

 認識というのは自己を中心にして起こる物事であり、そこで生まれる実存は自己肯定でしか進歩がない。科学的実存主義というのはつまり、適者生存の中で勝者と敗者に分かれてしまうことを認識した前提に立って、生存競争の道ではなく、共存や棲み分けを目指す考えだとしている。しかし物語の後半で、主人公たち人間は意識せずにその科学的実存主義、新人類との共存の道を摘む選択に行ってしまう。『継ぐのは誰か?』は、そうした人間、自我の選択によって何かが失われていく可能性の想像を誘い、その中で発生する苦悩や葛藤を描いた物語で、読後の滲むような苦くて、しかしささやかな「ある」感覚はなかなか味わえないものがある。

 

 

継ぐのは誰か? (ハルキ文庫)

継ぐのは誰か? (ハルキ文庫)

 

 

 

【所収作品②:『果てしなき流れの果に』】

 『果てしなき流れの果に』は、1965年に『SFマガジン』に連載された長編小説で、恐竜時代から未来を含んだ10億年のスケールで描かれている。作品冒頭は、恐竜時代の破滅が舞台で、剣竜というステゴサウルスのような生き物とティラノサウルスの衝突、そして、洞窟の中で鳴り響く金色の電話機が象徴的に登場する。場面が変わって現代へと移り、奇妙な構造の砂時計をめぐって主人公の野々村たち学者やヒロインの佐世子の運命が綴られる。第3章以降は主人公が実質いなくなり、マツラとルキッフという2つの派閥が過去や遠い未来で激しく衝突しあう物語へと変化する。

 主題はタイトルにある通り、時の流れの果てにあるものは何か、宇宙の虚無のなかに存在する人間の意識の広がりは、いったい何の意味があるのかを問いかけている。物語終盤では、大きな「悪」の存在が設置されており、生命進化を管理する存在へのアンチテーゼとなっており、必要悪的なものへの肯定を提示することにより、創造と破壊について全体性のバランスという立場から止揚を試みている。

 作者によると、この哲学的なテーマへの最初の契機は、実存主義であって、そこからフッサールの『純粋現象学』という書物からも影響を受けて、宇宙という広大なものを「存在の鏡」として見立てることにより、普通ならその関係が分からないものを、論理的な手法を取ることによって、その相関性を想像しているのだという。

 この話の特徴は、時代が容赦なく移動するところにあって、一気に未来へと舞台が移ってしまうため、小松左京作品に慣れ親しんでいない読者は面食らい、混乱してくる。また、『継ぐのは誰か?』よりも登場人物は増えて、全章合わせて40人以上のキャラクターがばらばらに配置されているため、詳しい相関関係を把握することも初読の段階では難しい。しかし、『継ぐのは誰か?』と同じく、それでも物語の概要や軸は漠然と想像できるのが小松左京作品の面白いところであり、それが正しい読み方なのかもしれない。

 『果てしなき流れの果に』の着想は、第二次大戦後でも戦地に留まり続けた横井庄一さんのような人間の話からはじまり、それはギリシャ神話の『オデッセイ』や日本の『浦島太郎』のようなものとして昔からあったエピソードをモチーフにしたようだ。また、当時考古学の分野で発掘調査が進んでおり、大阪和歌山の県境に面する和泉山脈で土器や石器の出土を知ったことからも要素を取り込んでいるという。佐世子のモデルに関しては、「エリアを行く」という紀行文を書いた時にわかった、松浦佐用姫(まつらさよひめ)の伝説が題材となっている。佐用子のもとへやってくる老人の正体については、読者の想像に任せられている。それはあえて特定しないことで、名指されない赤の他人との実存を分かち合う意味も込められているのだろう。

 この壮大な宇宙小説の形式を取った作品は、『果てしなき流れの果に』のあとに何度か試みており、『神への長い道』(1967年)、『結晶星団』(1972年)、『ゴルディアスの結び目』(1976年)、『さよならジュピター』(1980年)、『虚無回廊』(1986年 未完)へとテーマが続いている。

 『継ぐのは誰か?』では、新人類との共存を目指した結果、人類の無意識の中に設定された必然的な失敗が描かれているのに対し、『果てしなき流れの果に』においては、生命の管理が行き届かない大いなる破壊者の肯定が要素として含まれているため、分かち合いと分かち合えないものの道をパラドックスを認めたうえで、その全体性へ視点を変え、重要性を説こうとしている。この点に関して、登場人物のハンスは弱弱しく訴えかけてくる。

「死ぬべきものも、生きのびるものも、すべて同じ種の一つの心によって共有の未来のために、えらび、えらばれた。えらばれたものは、のこったものの全存在を負うている。すべては、この時代の、この同胞――異なった運命を生きながら、今は同じ断崖に立たされている同一の種族が、その総意によって、えらんだ道だ。――あなたは、その共同体の運命を見すてるのか?見すてて、自分だけが、他の存在によってえらばれたものの道を歩もうとするのか?」

 とはいえ、共存や共同体の運命を見捨てない選択は、選択者がその過酷な責任と覚悟を担わなければいけない。それは簡単に解決もつかず、ともすれば自分の選択によって、『継ぐのは誰か?』の人類のような結末を迎えてしまいかねない。『果てしなき流れの果に』は、時空を超えたスパンの中で、多くの登場人物がそれぞれの選択に迫られる姿を読者が追いかける物語だ。

 

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

 

 

 

【月報・解説】

 

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 世界SF全集第29巻「小松左京」は、第21回目の配本。1970年刊行なので、小松左京も関わった大阪万博に合わせた配本だったのだろう。月報に寄稿したのは、星新一「外見の問題」、加藤秀俊「左京さんのババ抜き」、手塚治虫「ピザロの白鳥的怪物」の3人。星新一は、小松左京の異名でもある「SF界のブルドーザー」について書いており、建設用機器メーカーの小松製作所にひっかけたシャレであるとした上で、bullは牡牛で、dozeはぐうぐう眠るという意味があり、「強い牡牛をも眠ったようにおとなしくさせてしまう、おそるべき力をそなえたもの」という評価に、さらに小松左京は博学多識であると付け足している。評論家の加藤秀俊は、国際未来学会議での小松左京の精力的な働きを書いており、作品の前にまず小松左京という人間の広大さがあるのだと評している。手塚治虫は、時間と場所に対する貪欲さが、焼け跡派と称する昭和一桁代の文化人に共通する性格としている。「ピザロの白鳥的怪物」とは、野心と根性にあふれ冒険好きな反面、社交家な人物のロッシーニの異名「ピザロの白鳥」のことだ。

 この全集の解説を担当したのは、石川喬司で「小松左京の宇宙」というタイトルだ。当時は国際SFシンポジウムが日本で開かれたようで、冒頭でその大要を取り挙げつつ、SFというイメージ手法が、いかに社会的感性の基礎に根差しているかを述べている。また、小松左京がSF作家になる前の苦悩、星新一が開いた道を精密なコンピューター付きブルドーザーが地ならししたと評している。

 また小松左京がSFに開眼したきっかけとなった作品は、『SFマガジン』創刊号(1959年12月)巻頭シェクリイの「危機の報酬」だとしているのは単純に興味深い。小松左京は、正攻法で文学にしようとすれば膨大な資料と筆力が必要となる題材を裏返した形で、ごく短いものにまとめられるSFの可能性が、いかに有用であり、自身の戦争体験の芯の部分をすくい上げたのかを述べており、解説の石川喬司はそれを意識的に純文学から遠ざかろうとしているところに、小松の新しさがあるのだと認めている。

 

【感想】

  この全集と、それに関連した2冊の本(『小松左京自伝 実存を求めて』、『追悼 小松左京 日本・未来・文学、そしてSF』)を読んでみると、小松左京という人物が戦後復興期と経済成長の日本でどれだけ多くの人に影響を与えたのかが分かった。でも、僕の世代の90年代、そして北東北に住んでいた僕の同級生や図書館の中では、話題になることも触れられることもなかったので、フックになる部分はあまりにも少なかった。それはやっぱり、時代が異なることと関西圏ではないことに原因があると思う。自分の親の世代が大阪万博に行ったわけでもなく、近くには太陽の塔国立民族学博物館のような壮大なものもない。そういう地理的要因の中で、自らフックを作っていき昔のSFを読むには、作家の経歴から自分の引っかかる部分を見つけたり、映像作品のイメージから入っていくのも良いだろう。僕の場合は、社会学的な視点や分析から入ると、必ず退屈になるので、初めに自分で物語のイメージを作っていく感覚で読むと、初読の入り口として手触りがある気がする。

  SFというのは、映画作品などで初めて知り、その視覚的衝撃から入っているので、原作を読む場合はおとぎ話のように遠い話に感じるほど、距離感のあるイメージを遡行していかないといけない。自分の身近な物事との関係性は直接的になく、またSF好きな人たちが集まる場所もきっかけもない。そういう中で、今回のSF全集に収められた2作の長編小説は、遡行の甲斐がある読後感が得られた。ただし、『継ぐのは誰か?』を初読したあと連続で、『果てしなき流れの果に』へと入るのは無理だった。第1章の剣竜までは導入としてまだわかる。でも、その後の2章から始まる物語は、『継ぐのは誰か?』の問題提起をどこかで整理しないことには始まらなかった。

 この2作品で、一番衝撃を受けた場面は、『果てしなき流れの果に』の第2章終盤だった。この容赦のない時代の移り変わりを想像するのに慣れていない僕は、主人公たちの事件がどうなってしまったのか、一件落着されない状態に悶々とせざるえなかった。第2章までの衝撃は、時間の流れに逆らえない残酷な現実感が襲ってきており、序盤の展開はその後のSFを引き立たせるようなリアリティだ。正直、この作品の全体と人物の相関図について、僕はまだ理解していない部分があり、混乱している。本当は、登場人物はあまり重要でないのかもしれない。とはいっても、作品紹介に書いた通り、話の全体像のようなものは不思議と見えた気がする、というのが初読で感じた小松作品の特徴だ。また、小松作品においては、物語の展開や理論的な補強を施すために、研究機関や大学から教授が送り込まれ、突然何か学術的な講義を始めるシーンが挿入される、というのも小松作品の特徴ではないだろうか?太陽学や普遍生物学についての高説を読んで、「ああ、そういうことか」とは基本的にならない。ならないけれども、知ったかぶってページをめくり続けるほかないのが、SFを読むときのコツなんじゃないだろうか。教授の話は、あとで調べて物語の構造に付与する理論がどう組み合わさっているのかを考えるのが良い。

 人間の実存や認識は、宇宙にとって何なのか。それは、壮大であり深淵な問いかけで、普通僕たちが生活していて到達しないものだ。SFによく登場するタイムマシンやロボット、人工知能ディストピアなどに提示された未来観のリアリティは、いくつもの選択が広がった人間の先に待ち受ける世界観の欠片ともいえる。それはこの世のすべての災いが入ったパンドラの箱が解放された際、唯一封印したとされる、未来予知を想像し、思索と遊戯を重ねた人間が開発した物語として、現実の裏側に残されている。

僕はまだ、小松左京の世界観という大きな山を入ったばかりの人間だ。ファンの人から見れば、「いやいや、小松さんにはこういうところがあって…」と正されること間違いない。しかし、そんなことは知ったことじゃない。もしかしたら、小松左京ファンはもう近くにいないのかもしれないから。

  とにかく、今回小松左京を取りあげてデカすぎる小松山脈を登ってしまい引き返せなくなったので、一種の向こう見ずな登山者が来たと思ってもらいたい。

最後に、参考にした本を。これらの本では、ファンたちの熱い思い出などが語られているので、読んでいて面白く、また小松左京は後期の作家活動として、きちんと自伝を遺しているのは見逃せない功績ではないだろうか。彼の活躍は確かに2010年代まで、大きな影響を及ぼしたのかもしれない。しかしもう小松左京という作家はいない。小松左京は、自伝の中でSFについてのメッセージを遺している。

 

 「これからSFはどうなるか。君たちどう思う?僕はもう仕事は果たしたからさ。あとは引退した傍観者として。」

 

小松左京自伝―実存を求めて

小松左京自伝―実存を求めて

 

 

 

小松左京---日本・未来・文学、そしてSF (文藝別冊)

小松左京---日本・未来・文学、そしてSF (文藝別冊)