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紙枕の中にある

本とエッセイ

世界SF全集 第13巻「レイ・ブラッドベリ」

世界SF全集

レイ・ブラッドベリの時代】

  5回目の今回は『華氏451度』で有名な作家、レイ・ブラッドベリを取りあげる。彼の名前は知ってはいたけれど、肝心の作品については全く読んだことがなかったので、彼がどのような時代に生まれ、どのような経緯で作家になったのか、また作家としての特徴などを書きつつ、本巻に収められた作品を読むことにした。今の時代、Wikipediaを見れば一発で分かった気になるし便利なんだけど、ブラッドベリの項目はあまりにもあっさりと書かれていて頭に入ってこなかった。なのでこの記事は、それらを補うためのメモ貼的な意味合いも込めつつ書くので多少長いですが、読んでいて参考になる部分があれば幸いです。

 

f:id:realreference:20161206183108j:plainレイ・ブラッドベリ本人の写真)

 

 レイ・ブラッドベリ(Ray Bradbury, 本名:Ray Douglas Bradbury 1920~2012 )は、日本で紹介されている海外SF作家の中でも、特に有名なアメリカ人SF作家の一人だ。彼の作品が日本に紹介されたのは、今から約半世紀も前にさかのぼるが、彼が世を去った2012年以降の今もなお、彼の作品は古典SFとして多くの人々に読み親しまれている。

 レイ・ブラッドベリは、イリノイ州ウォーキガン(Waukegan)という町で生まれた。彼が生まれた1920年代頃のウォーキガンは、人口約3万5千人の景気に賑わう、あわただしい産業都市だった。いわゆる「狂騒の20年代」と呼ばれるように、アメリカは移民の流入と産業の発展、大量消費社会へと転換するこの時代にレイ・ブラッドベリという作家は生まれた。次々と娯楽が町に溢れていく目まぐるしい時代の中で、幼いレイ・ブラッドベリはラジオ、映画、サーカス、コミック、絵本、幻想小説などに親しんでいたとされている。彼が2歳の頃、生活の中にラジオが入り込み、3~4歳の頃には白黒映画が彼の心を魅了していた。当時のことについてブラッドベリ

「遠く離れたスケネクタディの音楽が聞こえた。わたしが本物のラジオをはじめて経験したのがそのときだった。(…)遠い声のする遠く離れた音楽に耳をすました。当時はわからなかったが、わたしは未来に耳をすましていたんだ」

「神は、メタファーを貼りつける生きものとしてわたしをお造りになった。メタファーは、見るはしからわたしに貼りついてきた。最初が『ノートルダムのせむし男』だ。(…)どうしてこの映画が、3歳児のなかに共感をかきたてられたのかはわからない。ただひとついえるのは、チェイニーがみごとに役割を演じきり、彼の失恋はあまりにも感動的で身近なものだったので、わたしの魂全体がその幼い年齢より未来へ進み、わたしは自分自身のなかで背中を丸め、せむし男になったんだ。小さな体には驚くべきことに思える。でも、そういうことが起きたんだ」

ブラッドベリ年代記』P37~38)

 と述懐しており、幼少期にマス・メディアや映像文化の台頭と共に成長した世代だったことがわかる。昔話などについては、叔母のネヴァ・ブラッドベリからの影響が大きかったようで、『ジャックと豆の木』や『美女と野獣』、『シンデレラ』など定番の昔話はこの時に読んだ。後年彼が批評家などにSF作家と分類された際、自身はむしろファンタジー作家であると名のり続けた起因は、幼少期に体験した、映画・ラジオという新たな視覚・聴覚に訴えかける文化と、絵本や昔話の旧来の伝統的な想像の営みが生活上で抽象的に結びついたことにあるのかもしれない。

 少年期のレイは、読書好きな祖母の書庫から『オズの魔法使い』、『不思議の国のアリス』、エドガー・アラン・ポーの『神秘と想像力の物語』などを見つけ、またアメリカSF界の草分け的存在のパルプ雑誌、『アメージング・ストーリーズ・クォータリー』とも出会い、神秘的な空想の世界へと興味を深めたとされる。彼の読書経験からうかがえるのは、SF雑誌を読んで学問的な科学知識への探求心へと移るのではなく、あくまでも架空の物語としての、抽象的な概念の「SF」という発想に興味を覚えていたことにあるだろう。それは彼の学校の成績でも反映され、ブラッドベリが得意だったのは英語と美術の教科であり、数学に関してはむしろ不得意であったとされている。

 1930年代にはカルフォルニアへと移住し、ハイスクールへ入学すると、創作に手を出し始めた。コナン・ドイルP・Gウッドハウスなどの作品を模倣し、地元のウォーキガン峡谷と森を題材に創作を試みたりもした。後にこのイメージは、自伝的作品の『タンポポのお酒』、『ハロウィーンがやってきた』、『さよなら僕の夏』へと昇華する。1940年になると、SF作家ヘンリー・ハースという人物との共作「振り子」でデビューした。また、当時アメリカで活躍していた女性のSF作家、リイ・ブラケットという人物とSF協会の縁で指導を受けることになり、彼女から小説の刈り込み方やプロットの立て方を学んだ。ちなみに、このリイ・ブラケット(Leigh Douglass Brackett)という人物は、映画『スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』の脚本を手がけたとされ、スペース・オペラやファンタジー要素が強い作家と言われている。

 その後、アメリカが第二次世界大戦を迎えた際、ブラッドベリは徴兵のための身体検査受けたが、極度の近視のため不合格となり創作を続けることになった。同じくSF作家であり、海軍士官だったロバート・A・ハインラインとは、母国に対する意識の違いから亀裂が生じ、その後何十年も絶交関係となったが、のちに和解している。戦時中は、海軍の工廠でアイザック・アシモフなどのSF作家と出会った。1944年には、『ウィアード・テイルズ』という雑誌に掲載された「みずうみ」で好評を博した。大衆雑誌で確実に実力をつけていた彼は、次第に「パルプの詩人」と呼ばれ、散文的で詩的な文体が評価された。 

 戦後は「闇のカーニヴァル」などのダーク・ファンタジー要素を取り入れた怪奇小説を執筆しており、初期の「パルプの詩人」からアメリカン・ゴシック・ホラーの草分け的存在へと、表現の方向を変えていったとされる。初期の集大成的作品の「闇のカーニヴァル」を書いた後、ブラッドベリは結婚を経て代表作『火星年代記』を発表した。この頃のブラッドベリは、週に1作のペースで短編を作ることを習慣化していた。彼自身が「自分は長距離ランナーではなく、短距離ランナーだ」と言うように、彼は短編を主軸に執筆活動をしていた。ファンタジー的なものを書いて以降、1950年代のアメリカに呼応するかのように彼の作品は、政治・社会的な要素を含意したものに変化していった。50年代以降は急速に社会的な活動に関わり、いわゆる「赤狩り」の検閲や排除運動に影響されて、その風潮に反抗する講演を行ったり、声明文を発表した。1950年代初頭において、レイ・ブラッドベリの名はSFの分野ですでにトップ・プレイヤーになっていた。1953年に『華氏451度』が刊行されると、作家としての地位は確立されて、この頃になると脚本家の仕事へとキャリアを広げた。映画『白鯨』や『トワイライトゾーン』の脚本なども手掛け、ヒッチコックと出会ったりもしていた。50年代から80年代にかけてのブラッドベリは、2つの代表作を軸にベストセラー作家として活躍、その間を埋めるように脚本家の執筆活動もしていた。それ以降は、代表作を超えるようなベストセラーはなかったが、老齢にも関わらず2000年代にはミステリー小説も発表した。

 2004年には、マイケル・ムーア監督の映画『華氏911』の影響もあり、オマージュ元の『華氏451度』の作者としてブラッドベリは再び取り上げられた。ムーア監督に対しての不快感をブラッドベリは示したが、映画そのものは人々の話題となり、いかにブラッドベリ著作がムーア監督を含めた人々に影響を及ぼしていたかを示すことになった。同年、ブラッドベリはアメリカ国内で芸術家に与えられる最高の栄誉とされる、ナショナル・メダル・オブ・アーツを授与された。2012年に彼は逝去したが、現在においてもアメリカで発展したSFという文学ジャンルの古典としての評価は高く、日本では新訳版が出版されたものが読まれている。ちなみに、ブラッドベリの蔵書は彼の出身地であるウォーキガン公共図書館に所蔵されているので、興味のある人は行ってみるのもいいかもしれない。

 

【作風・評価】

  ブラッドベリの作風は基本的に3つあり、幻想小説怪奇小説、SFの作品が多いとされる。また、彼が雑誌掲載からデビューしたこともあってか、短・中編小説の形式で書かれたものが多く、およそ400~500篇の作品があるとされている。

 彼の評価は、代表作が1950年代に位置していることから、1960年代にみられる内面を描く手法へ移行したニューウェーブ運動や1980年代のサイバーパンク、ゲームやネットが浸透しスマホを片手に出かけるのが現実社会で普通となった21世紀の現在では、ブラッドベリの作品はある種古臭い牧歌的な抒情性に根差した作品だと思われるかもしれない。それは「古典SF」の代表として括られて、やがて忘れ去られてしまうものに過ぎない。しかし彼の作品がいまだに評価されるのは、アメリカ社会の一部をモチーフに、人間社会へ対する諷刺や独特な詩的表現の豊富さに加えて、人間の問題に対する洞察力が読者に想像力を介して喚起されるところがあるからだろう。それは世代を超えて、多くの人々へインスピレーションを起こし、大いに影響を残した作家として、SF史に名を刻んでいる。

 

【所収作品①:『火星年代記』】

 『火星年代記』(英: The Martian Chronicles 訳:小笠原 豊樹)は、SFというジャンルを読むにあたって、いわば体験入学的な役割を担う小説で、数えきれないほどの読者がこの作品を通過していった。ショート・ショートで有名なSF作家の星新一は、この作品でSFを志したとされている。また、アメリカの作家スティーブン・キングレイ・ブラッドベリがいなかったら今の自分は存在しなかっただろうと評し、とりわけ影響された作品として、この『火星年代記』を挙げている。

 内容については、今更ここで紹介する必要がないほどに多くの人が紹介してしまっている。火星を舞台にした26の連作短編集の形式を持つこの物語は、1950年に出版された。もともとは、1946年にパルプ雑誌『プラネット・ストーリーズ』に掲載された短編から始まり、各章ごとに人物や場面が変わり、バラバラの小品が一種の枠物語として機能している。タイトルにある通り、火星の年代毎に巻き起こる出来事は、人類と火星人の交流の難しさ、文明観の違いを基軸に展開されており、移住者と原住民の問題意識を投げかけている。行儀良く読書をすれば、アメリカ社会の諷刺として読めるこの作品だが、物語としての抒情性は平易で色彩に富んだ表現で書かれている。火星に人類がやってくる歴史をアルバムをめくるかのように読めるので、レイ・ブラッドベリの作風がどんなものかを知るには取っつきやすい内容だ。 

 たびたびSFでは火星が舞台となった物語が登場するけれども、ブラッドベリの『火星年代記』の場合は、単なる舞台装置として壮大な印象を与えるために用いられたわけではない。ブラッドベリがシャーウッド・アンダースンという作家の『ワインズバーグ・オハイオ』という連作短編を読んだことから始まり、エドガー・ライス・バローズの「火星」シリーズと出会ったことにより、『火星年代記』の着想は明確となったとされている。そこでイメージされたのは、アメリカ中西部の景色を重ね合わせた寓話であって、スタインベックの『怒りの葡萄』からも短編を繋ぎ合わせる構成上の隠喩的手法を取り入れていた。

 しかし、「SF」として読んだ場合、『火星年代記』の火星の景色というのは、科学的な認識を欠いている部分がある。その点に関しては、作者ブラッドベリも自覚しており、この作品はSFではなくファンタジーだとしている。『火星年代記』に描かれた火星には、現実の火星の景色とはかけ離れた風景が描かれており、大気や青色の山々が存在する。ブラッドベリ“公認"の伝記とされる『ブラッドベリ年代記』では、この作品で表現された火星は、19世紀のイタリア人天文学者、ジョバンニ・ヴィルジオ・スキアパレリという人物とアメリカ人天文学者パーシヴァル・ローウェルという人物からの影響があったとされている。彼らが考察した火星というのは、火星表面に刻まれた線を知的生命体が作り出した「水路」だと仮定し、数百の巨大な線形が植物を灌漑させるための運河網として機能していたと推測した。現在の科学からすると、彼らの推測はそれこそ「SFちっく」なものに過ぎないが、ブラッドベリはこの絢爛豪華な幻想に浸ることができるヴィクトリア朝のロマンチックな想像力を採用したのだ。

 『火星年代記』はそうした19世紀的科学に基づいたもので、ファンタジックな世界観の中で人間中心のドラマが展開されているため、火星人たちはそのドラマから外れたところで暮らしている。滅びかけた地球から移住してくる地球人たちは、不安を抱えた内面を火星人たちに慰めを要求しつつ侵略してくる。そこにはアメリカという多様化の裏に隠された意図しない暴力性が、原住民に向けられている。この作品の主人公が人類だとするなら、火星人たちはいったい何の役割を担っているのだろうか。地球からやってきた調査隊は、火星人の文明を理解する。

 

「火星人は、動物の生活の秘密を発見したのです。動物は生に疑問をもったりしません。ただ生きています。生きている理由が、生そのものです。生を楽しみ、生を味わうのです。(…)火星人は戦争と絶望のさなかに、『一体なぜ生きるのか』と考え、その答えが得られないことに気づいたのでした。しかし、ひとたび文化がおだやかなものになり、戦争が終わると、その疑問は新しい局面では無意味なものになりました。すでに生はよきものであり、論争の必要は消滅していたのです」

世界SF全集13巻『火星年代記』より「月は今でも明るいが」P83~84

 

  はたして火星人たち全員が論争を放棄したのかどうか、それはわからない。火星人たちの哲学を知る由もない人間たちは、はてしない距離を越えて移住先を目指してやってくる。その風景はまるで荒涼とした砂漠をさまよう流浪人のように表現されている。

 

「何かを見つけるために、何かを見捨てるために、何かを手に入れるために、何かを掘り出すために、何かを埋めるために、小さな夢を抱き、大きな夢を抱き、あるいは全く夢をもたずに、やって来た。(…)あたりは宇宙空間で、見馴れぬものばかり、見知らぬ仲間ばかり。(…)数には慰めがある。だが最初の孤独な人たちは、自分達だけが頼りだった……」

世界SF全集13巻(『火星年代記』より「移住者たち」P90

  

 火星人たちはありのままの生を謳歌する。地球から逃亡してきた人間達は、それぞれが胸に理想を抱えつつ孤独を噛みしめている。火星人は、「火星人」という種全体の生きることだけを全肯定した。別個で生きることを良しとしている地球人は、現在の生を否定して疑問視しており、相対的な関係にある。地球人全体を代表して送り込まれた調査隊の隊長は、二者の枠組みから外れて種の選択そのものに疑問を感じはじめる。

「一体われわれとは何者だろう。多数派か?それが答えなのか。多数とはつねに神聖なのか。つねに、つねに、つねに神聖で、ほんの一瞬たりとも誤りであることはないのだろうか。千万年経っても正しいのか。そもそも多数とは何だろう。だれが多数なのだろう。多数は何を考え、いかに行動し、将来変わるのかどうか。そしておれがこのいまいましい多数に加わったのは、一体全体どういうわけだ。おれは居心地がよくない。閉所恐怖症か、群衆恐怖症か、それともただの常識か。全世界が正しいと思っているとき、一人の人間が正しいということはあり得るか。」

世界SF全集13巻『火星年代記』より「移住者たち」P86

 『火星年代記』の火星人たちは、テレパシー能力を持っている。そのため、個々の感傷だとか葛藤は、すぐに共有意識へと浸透して強力な種の全体へ向かうための自己肯定に還元されてしまう。これは便利なようでいて、何もかもが筒抜けになっているような村社会のようにも見える。地球人たちはこの村社会を放棄したい種なのかもしれない。

 はたして、この二つの知的生命体は、物語の中で何を葛藤しその解決へ向かうためにどんな選択をし、結末を迎えるのだろうか。その印象は読者に投げかけられ、民族の軋轢を重ね合わせて想像したくなるような内容だ。ただし、現在の世界情勢はさらに複雑になっていて、火星人が地球に移住したような状態のようにも思うが、気のせいだろうか。

 なお、世界SF全集に収められたものは旧版のものなので、読む場合は21世紀の時代に合わせてブラッドベリが書き直した新版が現在では入手がしやすくなっている。 

 

 

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

火星年代記 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

【所収作品②:『華氏451度』】

  『華氏451度』(原題:Fahrenheit 451 訳:宇野 利泰)は、1953年に発表された。本を所持することが禁止された管理社会で、焚書官として働く主人公ガイ・モンターグが、あるとき本を読んでしまい、危険分子となりその身を追われる物語だ。題材として扱われた焚書(ふんしょ)は、1950年代のアメリカで行われた「赤狩り」という共産主義排斥運動に深く関わっている。

  この作品もレイ・ブラッドベリを代表する作品の一つなので、本のタイトルくらいは聞いたことがある人は多いのではないだろうか?本が禁止された社会とは、いったいどういう社会なのか。毎月、湯水の如く本が出版されている現在の日本の中では、そのイメージは難しいものがある。

 『華氏451度』の世界は思想統制がされた社会で、本を所持していた場合、通報されるディストピアな雰囲気に満ちている。主人公モンターグの仕事は、通報した家へ赴き、火炎放射器を手にして焼きに回る。『華氏451度』の世界で活躍する焚書官は、作中ではイギリスからやって来たことが言及され、以下のように示されている。

「創立 1790年。イギリス本国よりわが国にもちこまれ、その影響をおよぼすおそれのある書籍を焼き払うことを目的とす。初代長官、ベンジャミン・フランクリン。」

世界SF全集13巻『華氏451度』P265

  ベンジャミン・フランクリンという人物は、アメリカ建国の父と呼ばれる人物で、彼の肖像は100ドル紙幣として有名だ。彼の業績には、アメリカ初の公共図書館の設立などがあるが、同時に禁書を初めて実施した人物という側面もある。1790年のイギリスというのは、フランス革命と関係しており、貴族階級のものだった本が庶民へと行き渡っていく、大衆が出版文化に触れ始めようとした年代だ。本を読むことが禁止された社会へ向かった影響そのものがイギリスから来たのに、自国の書籍を焼き払ってしまう自己否定的なこの設定には、ブラッドベリのアメリカに対する歴史観と皮肉が込められているかのようだ。ちなみに、主人公モンターグの名前は、ある製紙会社からとったもので、ファーバーという人物は有名な筆記具にちなんだ名前だ。

 『華氏451度』の世界は、アメリカのみを描いている内向きな世界観だ。作中では、アメリカ以外の世界情勢は経済破綻し貧窮していることが言及される。主人公たちが生きるアメリカは、徹底的に管理されているが社会システムは完成している。管理から外れなければ、即物的な生活に困ることはないのだ。主人公の上司、署長のビーティは目前にある「生」を、本を所持していた老女にこう説いている。

「ここにある書物は、それぞれ矛盾したことを記している。きみは数年間、この家に閉じこもって、いわばバベルの塔をまもってきたわけだが、これからさきは気持ちを入れかえて、実世界のあかるい人間として、生れかわることだな。こんな書物のなかに住んでいたのでは、死人も同然のものになってしまう」

世界SF全集13巻『華氏451度』P265

 眼前の「生」が保障された社会では、内面に閉じこもり沈思するような本というのは否定される。やがて主人公モンターグは、目の前の「生」に死を与える本を処分する役割を担った焚書官であるからこそ、焼き尽くされていく本について考え始めてしまう。

「ゆうべはじめて、書物の背後には、それぞれひとりの人間がいることを知った。その人間が考えぬいたうえで、ながい時間をかけ、その考えを、紙の上に書きしるしたのが、あの書物なんだ。(…)その人間が、考えていることを書物にするまでには、おそらく一生を費やしたのじゃないかな。世界を見、人を見、一生を賭けて考えぬいたあげく、書物のかたちにしているのだ。それをぼくたちは、情報を受けとると、わずか二分間で駆けつけて、ボーンだ。それでなにもかもおしまいになるのだ」

世界SF全集13巻『華氏451度』P279

 目の前の現実を生きるには、長い時間をかけ考えてはいられない。思想的には刹那主義的な欠点を抱えながらも、一つの完成された管理社会が描かれた『華氏451度』は、組織体で生きることを目指しているため、個別の葛藤は無視してしまう。「いま」を生きる社会では、組織体で欲求が満たされるスポーツが推進され、この社会へと陥った原因は国家ではなく人々にあったことが署長の発言で明らかにされる。個々の人々が別種の疑問を抱き、哲学や思想に目覚めてしまうことを極端に排した世界では、身体感情の脊髄反射的な要請が求められるような、テレビ・スポーツ・性・などが共有され続ける。

  この世界では、少数派に追い込まれた人々の幸福というものは、本の世界にある。葬式も廃され、回顧録を書くことも禁止された社会の『華氏451度』は、孤独に気が付く前に火に燃やされ、やがて灰になってしまう。モンターグの妻は≪海の貝≫という際限なくラジオが垂れ流される物を耳に突っ込み、薬物依存になりながらも目の前の「生」を楽しもうとする。「公共」という共同体に大衆の幸福を託した社会は、プライベートな苦悩がいつでも邪魔になる。

 この作品は、現実の検閲制度を基に作られた政治批判的な側面もあるが、作者レイ・ブラッドベリは、決して党派意識に縛られない人物だ。『華氏451度』は、特定のイデオロギーに属さない個人が書いた物語であることを忘れてはいけない作品だ。現代はさらに生活の速度が合理化され、速度は速くなっている。ネットワーク社会は情報の際限がないので、延々と媒体が出現し、それを話題にすることができる。しかし人間の肉体は限りある生の中で独自の速度を持って生活するほかなく、肉体には限界がある。この作品を読んでいると、無限の話題が出現する≪テレビ室≫のような社会から一歩離れて、もう一度読書の営みについて考え直したくなる。本は巻末に向かって際限が設定されているにも関わらず、文字を読むことは決して速く読み飛ばすことができない。主人公モンターグは、本がもたらす速度を越えた言語の深刻さに気が付いてしまったのだろう。

 

 

 

 

【月報・解説】

  

f:id:realreference:20161206191503j:plain(月報と函。)

 

  世界SF全集のブラッドベリの巻は第20巻目の配本。月報に寄稿したのは、小説家の三木卓ブラッドベリ雑感」、翻訳家の矢野浩三郎鏡の国のアリス」、翻訳家の伊藤典夫「なぜぼくはブラッドベリの愚作を訳すか」の3人。

 「ブラッドベリ雑感」では、ブラッドベリの小説を機械文明の先端としてではなく、20世紀初頭の雰囲気のした作品だと評しながら、『火星年代記』に感動したことや20世紀前半のアメリカ的風土の記憶に満ちたものであること、そして反マッカーシズムの意図が『華氏451度』にあったことが書かれている。しかしそれ以前に、レイ・ブラッドベリの作品には幻想的で鮮やかな世界観に魅力があり、抽象的に調和を保っていながら、その調和を打ち破って恐ろしい美しさが出ているとしている。

 「鏡の国のアリス」では、東京のオモチャ箱のような乱雑さとアメリカの広大な大地を対比的にイメージした上で、幻想的なイメージを提供しているブラッドベリ作品を、現実を写し取った鏡のようなものだと喩えている。それは現実の二次元的な鏡のような働きではなく、「鏡の国のアリス」のような、過去や未来を虚構という想像力によって現実の影が出てくることで、嘘の論理が自律性を持つことを明かしている。しかし、ブラッドベリ作品は、その論理を越えて境界線があやふやになるほどに、仕掛けが込められているとしている。

 「なぜぼくはブラッドベリの愚作を訳すか」では、伊藤典夫は初期作品を訳す経験をしたことで、ブラッドベリ作品にも習作や埋もれた作品もあることを紹介している。ブラッドベリファンの第一号のような作家、星新一は翻訳を通して愚作があることを知ったとしている。翻訳者として、伊藤典夫は過大評価もせず、有名な海外作家であっても屑同然の作品があるとして、そんな作品も掘り起こされてしまうことを伝えている。その上で、「愚作」と呼ばれるものを訳し、その「愚作」にも貴重な要素が隠されていることを示したいという、ある種のSFファンとしてのプライドを表明している。そして、『刺青の男』、『太陽の黄金の林檎』、『華氏451度』、『十月はたそがれの国』まではバランスのある作品だが、その後の作品は空疎なもので評価が下がるということも、フェアに紹介している。

 世界SF全集13巻、レイ・ブラッドベリの巻の解説を担当したのは、SFを日本に持ち込んだ人物として有名な福島正実だ。解説では、ブラッドベリを単なるSF作家としてではなくプローパーSF枠を大きく外れた作品を書く、広義の意味のSF作家と評している。そして、ブラッドベリはSF作家だけではなく、エドガー・アラン・ポーやアムブローズ・ビアースという作家に繋がる、正当なアメリカ幻想文学の後継者だと位置づけている。そこでは、あえてブラッドベリにラベルを貼るとしたら、それはファンタジイ作家と呼ぶべきだとして、グロテスクとアラベスクの小説だと言った、イギリスのクリストファー・イシャウッドを引用している。

 解説ではブラッドベリの評価をベタ褒めしているため、ブラッドベリよりもむしろ福島正実のSF熱がどれほど強いかがうかがえて面白い。この本が出版されたのは1970年で、大阪万博や国際SFシンポジウムが日本で開催された年なので、当時の熱狂の度合いが残されている解説として読めるだろう。ちなみにこの世界SF全集ブラッドベリ巻の次回配本は、小松左京の巻だった。

 福島正実ブラッドベリについては、もともとサイエンティフィックな小説はもちろん、そうした道具立てについて書くこともしない作家で、人間疎外や科学技術の進んだ未来における人間性の喪失を描いた反科学主義的な作風だと評している。解説にあるブラッドベリ自身の引用は以下のように記されている。

「ぼくの作品は、皮肉なことに、よく科学否定の小説だといわれる。だが、それは心外なのだ。ぼくは、テレビでも、映画も、自動車も原子力も、心から信頼している。ぼくたちの寿命を、若さや美しさをのばし、より大きな娯しみを与えてくれるかがくというものの、ぼくはつねに味方なのだ。寒いときに温めてくれ、暑いときには冷やしてくれ、病気のときに治療してくれ、淋しいときに慰めてくれる科学を、ぼくは好いている。恐ろしいのは、そうした科学の誤用なのだ」

世界SF全集13巻 解説 P413~414

  ブラッドベリも、発展してゆく科学技術を期待して喜びながらも、その反面でペシミスティック(厭世的)に疑い続けた人間だったのだろう。それはヴィクトリア朝文化に伝統的なコンプレックスを抱いた「アメリカ人」が、最先端の科学技術へと進展していった貪欲さを立ち止まって考えようとした抵抗のようにも見え、SF作家の誰もが抱く想像力の源泉を持っていたのではないだろうか。本巻の所収作品を繋げて読むと、発展へ加速してゆく時代の中で取り残され、忘れ去られてゆくものを注意深く読者に喚起しようと試みた痕跡を辿っている感覚があった。

 

【感想】

  レイ・ブラッドベリの作品は、大学の講義で『華氏451度』が紹介されていた。しかし、1950年代のアメリカ文学を読んで何が面白いのか分からなかったし、古臭い内容だなと思っていたので読んだことはなかった。実際に読んでみると表現がいちいち詩的になっていたりする部分があり、確かに古臭さを感じたけれど、現代に通じる要素がある内容に胸が打たれる所があったのも事実だ。『火星年代記』でいえば「月は今でも明るいが」や地球人と火星人たちの違い、『華氏451度』では出版不況と読者や消費文化について重ねてしまった。

 今回読んでいて分かったのは、SF作家といってもハードSFのようにキチキチに論理を詰めた物だけがSF作品ではないということを知った。「SFとは何か?」という問いに関して、SFオタクやSFファン、SF作家であってもその定義づけは難しいらしく、長年に渡って論争が繰り返されてきた歴史があったという。その定義づけには個人の好みの問題や感動したSF作品に対して称される「センス・オブ・ワンダー」という価値観などが含まれていると思う。しかし、まずSFは科学技術という最先端の思考に基づいて想像される物語だという前提があって、その論争は、まるで空の色が何色であるかを定義しているように思えた。少なくとも、それぞれのSF作家はSFという概念を自ら創造している。

 レイ・ブラッドベリ自身のSF観は以下のように語っている。

「SFは、アイデアの小説なんだ。僕はアイデアに興奮する。興奮するとアドレナリンが出て、そうなればもうアイデアからエネルギーをもらってるんだってわかる。どんなアイデアでもいいんだが、頭の中に発生して、まだ現実ではないが、いずれ現実になって世を変えて、もう元には戻れない、というようなアイデアがSFになる。世界のどこかを小さく変えるのであっても、そういうアイデアがあって書いたら、SFを書いていることになる。いわば可能性の芸術。いつだってそう。不可能を書くのではない」

ブラッドベリ、自作を語る』P355

 レイ・ブラッドベリ作品はSFというより、ファンタジーであるということは、どの評者も共通の認識で、彼が「ビッグ・スリー」に入らない(収まらない?)理由もそこにあるのだろう。彼のイメージの根源には、植民地からゴールドラッシュを経て西部開拓精神が終わり、ユートピア精神から都市文化の発展へと内省的に向かってゆくアメリカの歴史が色濃く反映されていて、幻想的なイメージが先行した結果、宇宙という抽象的なユートピアに舞台を見出したのは当然のことようにも思える。そういう意味では、彼の作品もれっきとしたSFで、広義のSFとかいうよく分からない間口に明らかに貢献していることは誰も口をはさむことはないだろう。

 最後に参考にした本とおすすめの作品を紹介しておきたい。おすすめの作品については、数多くのSF作品を紹介している書評家の牧眞司氏のものを取りあげた。僕個人もブラッドベリ初心者なので、これから読むためのガイドブックにしたい。参考にした本については、ほとんどトリビア的な内容で退屈になるが、彼の読書経験や当時のアメリカについて、そして彼がSFにどう向き合っていたかを知ることができる内容だ。

 

≪おすすめのブラッドベリ作品≫

①『十月はたそがれの国』(創元SF文庫)

②『ウは宇宙船のウ』&『スは宇宙(スペース)のス』(創元SF文庫)

③『万華鏡』(東京創元社

【今週はこれを読め! SF編】「ブラッドベリというジャンル」の二十六篇 - 牧眞司|WEB本の雑誌

 

 ≪参考にした本≫

 

ブラッドベリ、自作を語る

ブラッドベリ、自作を語る

 

 

 

ブラッドベリ年代記

ブラッドベリ年代記